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「守覚法親王」の版間の差分

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'''守覚法親王'''(しゅかくほっしんのう、[[久安]]6年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]([[1150年]][[4月3日]]) - [[建仁]]2年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]([[1202年]][[9月13日]]))は、[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[皇族]]・[[僧]]。父は[[後白河天皇]]。母は[[藤原季成]]の娘・[[藤原成子|成子]]。[[真言宗]][[仁和寺]]第6世[[門跡]]。
| 人名 = 守覚法親王
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| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 続柄 = [[後白河天皇]]第二皇子
| 称号 = 喜多院御室
| 全名 =
| 身位 = [[法親王]]
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| お印 = <!-- 日本の皇族のみ -->
| 出生日 = [[久安]]6年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]([[1150年]][[4月3日]])
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'''守覚法親王'''(しゅかくほっしんのう、[[久安]]6年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]([[1150年]][[4月3日]])- [[建仁]]2年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]([[1202年]][[9月13日]]))は、[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[皇族]]・[[僧]]。父は[[後白河天皇]]。母は[[藤原季成]]の娘・[[藤原成子|成子]]。[[真言宗]][[仁和寺]]第6世[[門跡]]。[[以仁王]]の同母兄にあたる


== 経歴 ==
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和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『北院御日次記』という日記も記した。また、[[平基親]]の『[[官職秘抄]]』は彼のために書かれたと言われている。
和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『[[北院御日次記]]』という日記も記した。また、[[平基親]]の『[[官職秘抄]]』は彼のために書かれたと言われている。


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『[[平家物語]]』『[[源平盛衰記]]』の「経正都落」条に、[[平経正]]が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、別れを惜しみ歌を交わした記事が残る。


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2024年11月2日 (土) 11:04時点における最新版

守覚法親王
続柄 後白河天皇第二皇子

称号 喜多院御室
身位 法親王
出生 久安6年3月4日1150年4月3日
死去 建仁2年8月26日1202年9月13日)(享年53)
仁和寺喜多院
父親 後白河天皇
母親 藤原成子
役職 仁和寺第6世門跡
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守覚法親王(しゅかくほっしんのう、久安6年3月4日1150年4月3日)- 建仁2年8月26日1202年9月13日))は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての皇族。父は後白河天皇。母は藤原季成の娘・成子真言宗仁和寺第6世門跡以仁王の同母兄にあたる。

経歴

[編集]

永暦元年(1160年)、覚性入道親王に師事して出家仁安3年(1168年)には伝法灌頂を受けている。翌嘉応元年(1169年)、覚性入道親王が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任した。高倉天皇の第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈祷を行っている。小野流・広沢流両流の法を受けた。建仁2年(1202年)、仁和寺喜多院で死去。

和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『北院御室日次記』という日記も記した。また、平基親の『官職秘抄』は彼のために書かれたと言われている。

平家物語』『源平盛衰記』の「経正都落」条に、平経正が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、別れを惜しみ歌を交わした記事が残る。

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