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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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| 人名 = 守覚法親王 |
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| 家名・爵位 = |
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| 画像 = Imperial Prince Abbot Syukaku.jpg |
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| 画像説明 = |
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| 続柄 = [[後白河天皇]]第二皇子 |
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| 称号 = 喜多院御室 |
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| 全名 = |
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| 身位 = [[法親王]] |
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| お印 = <!-- 日本の皇族のみ --> |
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| 出生日 = [[久安]]6年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]([[1150年]][[4月3日]]) |
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| 生地 = |
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| 没地 = 仁和寺喜多院 |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 配偶者1 = |
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| 子女 = |
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| 父親 = [[後白河天皇]] |
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| 母親 = [[藤原成子]] |
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| 役職 = [[仁和寺]]第6世[[門跡]] |
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== 経歴 == |
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[[永暦]]元年([[1160年]])、[[覚性入道親王]]に師事して[[出家]]、[[仁安 (日本)|仁安]]3年([[1168年]])には伝法灌頂を受けている。翌[[嘉応]]元年([[1169年]])、覚性入道親王が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任した。[[高倉天皇]]の第一皇子・言仁親王(後の[[安徳天皇]])誕生の際には出産の祈祷を行っている。小野流・広沢流両流の法を受けた。建仁2年(1202年)、仁和寺喜多院で死去。 |
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和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『北院御日次記』という日記も記した。また、[[平基親]]の『[[官職秘抄]]』は彼のために書かれたと言われている。 |
和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『[[北院御室日次記]]』という日記も記した。また、[[平基親]]の『[[官職秘抄]]』は彼のために書かれたと言われている。 |
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『[[平家物語]]』『[[源平盛衰記]]』の「経正都落」条に、[[平経正]]が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、別れを惜しみ歌を交わした記事が残る。 |
『[[平家物語]]』『[[源平盛衰記]]』の「経正都落」条に、[[平経正]]が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、別れを惜しみ歌を交わした記事が残る。 |
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2024年11月2日 (土) 11:04時点における最新版
守覚法親王 | |
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続柄 | 後白河天皇第二皇子 |
称号 | 喜多院御室 |
身位 | 法親王 |
出生 |
久安6年3月4日(1150年4月3日) |
死去 |
建仁2年8月26日(1202年9月13日)(享年53) 仁和寺喜多院 |
父親 | 後白河天皇 |
母親 | 藤原成子 |
役職 | 仁和寺第6世門跡 |
守覚法親王(しゅかくほっしんのう、久安6年3月4日(1150年4月3日)- 建仁2年8月26日(1202年9月13日))は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての皇族・僧。父は後白河天皇。母は藤原季成の娘・成子。真言宗仁和寺第6世門跡。以仁王の同母兄にあたる。
経歴
[編集]永暦元年(1160年)、覚性入道親王に師事して出家、仁安3年(1168年)には伝法灌頂を受けている。翌嘉応元年(1169年)、覚性入道親王が没した跡を継いで仁和寺御室(門跡)に就任した。高倉天皇の第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)誕生の際には出産の祈祷を行っている。小野流・広沢流両流の法を受けた。建仁2年(1202年)、仁和寺喜多院で死去。
和歌に優れ、家集『守覚法親王集』『北院御室御集』がある。また、仏教関係の著書には『野目鈔』『左記』『右記』などがある。『北院御室日次記』という日記も記した。また、平基親の『官職秘抄』は彼のために書かれたと言われている。
『平家物語』『源平盛衰記』の「経正都落」条に、平経正が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、別れを惜しみ歌を交わした記事が残る。