法親王
法親王(ほうしんのう、ほっしんのう)とは、日本の男子皇族が出家して僧籍に入った後に親王宣下を受けた場合の呼称[1]。 すでに親王宣下を受けている親王が出家(入道)した場合は入道親王と呼んで区別した[1]。出家した親王に対しては、他にも法師親王(ほうししんのう)、禅師親王(ぜんじしんのう)などの呼称が存在している[1]。
起源と変遷
[編集]三条天皇の皇子師明親王が出家して以降は、入道親王(にゅうどうしんのう)という呼称が出家した親王に用いられるようになった[2]。
1099年(承徳3年)、白河法皇の第二皇子で、出家して僧籍に入っていた覚行が親王宣下を受けて「覚行法親王」と呼ばれて以来[3]、男子皇族が出家後に親王宣下を受けた際の称号として定着した[4]。白河院は父後三条院から異母弟を後継として定められた経験から、堀河・鳥羽・崇徳天皇の異母兄弟に対しては、(出家前の)親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した。また、入道親王と法親王を合わせて広義の法親王ととらえ、出家後にも親王の品位を保持したものを法親王、遁世して品位を放棄したものを入道親王と呼ぶ区分も存在する[5]。
しかし法親王や入道親王の呼称は曖昧であり、同一人物に対して両方の称号が用いられることもあった[1]。法親王制度ができる以前に出家した高岳親王を戒名から「真如法親王」と呼ぶ事例や[6]、勝海舟が日記において公現入道親王を指して「法親王」と記述していた例もある[7]。
法親王は皇室と縁の深い門跡を務める役割を果たしていたが、幕末になると徳川家茂や岩倉具視などが皇族男子を還俗させ、仏教との関わりを断つよう主張し始めたことによって、多くの出家していた親王が還俗した[8]。慶応4年(1872年)4月、皇族および堂上家の者が出家や僧職にあることは禁じられた[9]。四親王家を除く還俗した法親王・入道親王のものを含む宮家は、明治3年(1870年)12月10日の布告で一代限りの皇族とされていたが、明治天皇の特旨によって存続が認められていったため、実際には一代皇族とされた宮家はなかった[10]。
以降、皇族の出家は一例もないため、法親王・入道親王と呼ばれる存在は出現していない。
主な法親王
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 「法親王」『百科事典マイペディア、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典、精選版日本国語大辞典、デジタル大辞泉、世界大百科事典第2版、世界大百科事典』 。コトバンクより2022年3月26日閲覧。
- ^ 「入道親王」『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典、精選版日本国語大辞典、デジタル大辞泉、世界大百科事典』 。コトバンクより2022年3月26日閲覧。
- ^ 佐伯智広 2012, p. 347.
- ^ 「覚行法親王」『デジタル版日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2022年3月26日閲覧。
- ^ 佐伯智広 2012, p. 355.
- ^ 前川忠「奉追悼眞如法親王」『智山学報』第1942巻第15号、智山勧学会、1942年、doi:10.18963/chisangakuho.1942.15_A1、ISSN 2424-130X。
- ^ 勝海舟『海舟全集』 第9巻、改造社、1929年。doi:10.11501/1177471。NDLJP:1177471/82。
- ^ 東郷茂彦 2017, p. 328-329.
- ^ 東郷茂彦 2017, p. 329.
- ^ 東郷茂彦 2017, p. 310.
参考文献
[編集]- 東郷茂彦「皇族についての理念と制度―近代を中心とした考察―」『明治聖徳記念学会紀要』第54巻、2017年。
- 佐伯智広「中世前期の王家と法親王 (杉橋隆夫教授退職記念論集)」『立命館文學』第624巻、立命館大学、2012年1月、ISSN 0287-7015、NAID 110009511670。
関連文献
[編集]- 平田俊春「法親王考―賜姓制度より法親王制への推移―」(『平安時代の研究』山一書房、1943、初出1939)
- 安達直哉「法親王の政治的位置」(竹内理三編『荘園制社会と身分構造』校倉書房、1980)
- 牛山佳幸「入道親王と法親王の関係について」(『古代中世寺院組織の研究』吉川弘文館、1990、初出1984)
- 横山和弘「法親王制成立過程試論―仁和寺御室覚行法親王をめぐって」(『仁和寺研究』2、2002)
- 横山和弘「白河院政期における法親王の創出」(『歴史評論』657、2005)
- 横山和弘「鎌倉期の法親王と寺院社会に関するノート―仁和寺御室と東寺長者・金剛峯寺の諸関係から―」(『朱雀』23、2011)
- 柿島綾子「十二世紀のおける仁和寺法親王-守覚法親王登場の前史」(小原仁編『玉葉を読む』勉誠出版、2013)