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貞明皇后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
貞明皇后
1912年(大正元年)撮影
第123代天皇后
在位期間
1912年7月30日 - 1926年12月25日
明治45年/大正元年7月30日 - 大正15年/昭和元年12月25日
皇后 1912年(大正元年)7月30日
皇太后 1926年(昭和元年)12月25日

誕生 1884年6月25日
日本の旗 日本東京府神田区神田錦町
(現:東京都千代田区神田錦町)
九条殿
崩御 (1951-05-17) 1951年5月17日(66歳没)
日本の旗 日本・東京都港区元赤坂 大宮御所
大喪儀 1951年(昭和26年)6月22日
陵所 日本の旗 日本・東京都南多摩郡横山村
(現:東京都八王子市長房町
多摩東陵
節子(さだこ)
旧名 九条節子
追号 貞明皇后
1951年(昭和26年)6月8日
追号勅定
氏族 九条家藤原氏
父親 九条道孝
母親 野間幾子
配偶者 大正天皇
結婚 1900年(明治33年)5月10日
子女 迪宮裕仁親王(昭和天皇
淳宮雍仁親王(秩父宮雍仁親王
光宮宣仁親王(高松宮宣仁親王
澄宮崇仁親王(三笠宮崇仁親王
身位 皇太子妃皇后皇太后
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貞明皇后(ていめいこうごう、1884年明治17年〉6月25日 - 1951年昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇大正天皇皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。節子(さだこ)。お印。旧名は、九条 節子(くじょう さだこ)。

昭和天皇の母。元華族公爵九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后した最後の例である。

生涯

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生い立ち

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1884年明治17年)6月25日公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生。道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった。

同年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と[1]呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ[2]

大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった[3]。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた[3]

1888年(明治21年)には、赤坂福吉町の九条家に戻る。

皇太子妃候補として

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1890年(明治23年)9月1日、華族女学校(後の女子学習院)初等小学科に入学し、1893年(明治26年)には高等小学科に進学する。さらに1896年(明治28年)には初等中学科に進学する。華族女学校では下田歌子石井筆子津田梅子らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた。

当初、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の妃として伏見宮貞愛親王の長女である禎子女王が挙げられていた。1893年(明治26年)5月に皇太子妃に内定し、1896年(明治29年)には明治天皇皇后美子とも対面していた[4]。禎子女王は外見が色白で美しかったが、西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある中、健康面を不安視され[注釈 1]1899年(明治32年)3月に、婚約は解消された。

皇太子妃としては、正室の子でないことや、明治天皇が皇族からの東宮妃を強く望んでいたことなどから、政府上層部でも節子に否定的な意見が多かった。最終的には消去法で、容姿端麗ではないことよりも、『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した。節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された[5]。また、大河原家にあった幼少期の写真は没収された[6]

皇太子妃時代

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結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(当時)と節子 (1900年撮影) 結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(当時)と節子 (1900年撮影)
結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王(当時)と節子
1900年撮影)

1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定された皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった[7]。節子は、和装と洋装を計5回着替え、明治天皇皇后美子への拝礼を含む多くの行事をこなした。

婚儀は従来の公家様式に代わる、新たな様式であり[8]、婚礼の儀式や行事は、当時の最新マスメディアである新聞によって詳報され、一般市民の関心を集めた。そこで、翌1901年(明治34年)礼法講習会[注釈 2]日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに日本社会に広く普及していった[8]

結婚式の日の様子として、ドイツ帝国からの”お雇い外国人”であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した。一方、節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた[9]

同年5月23日から6月7日にかけて皇太子同妃は、伊勢の神宮神武天皇陵への奉告を含め、東海近畿地方を旅行した[注釈 3]

還御した嘉仁親王と皇太子妃節子は、それぞれ別に国学漢学フランス語等の教育を受けた[10]。成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという。後年には万里小路の指導が自分の素養に大きく役立ったと感謝していた[11]。当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた[12]。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた[13]

成婚後すぐに懐妊したため、宮中祭祀等には出られなかった[14]20世紀の最初の年である1901年(明治34年)4月29日、満16歳(数え年18歳)で、第一皇男子(第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した。しかし、このとき皇太子は葉山に滞在しており、4日後の5月3日になって義母の皇后美子が内孫と対面するのに合わせて帰京した[15]。迪宮は生後70日の7月7日に、川村純義伯爵海軍中将)に預けられた。

嘉仁親王は地方行啓や、御用邸への滞在で不在がちであった。節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ[16]。この頃、下田歌子が神功皇后の故事にちなんで、節子妃を励ました[17]1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した。しかし、嘉仁親王は葉山に滞在して不在であり、7月22日に東宮仮御所に戻った[18]。節子妃と淳宮の母子は、葉山で過ごしたのち、淳宮は兄迪宮と同様に川村伯爵に預けられた。

成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった。1903年(明治36年)5月26日から6月10日にかけ、第五回内国勧業博覧会への台覧のため、皇太子同妃は大阪へ行啓した[19]。明治天皇と皇后が別々に行動したのに比し、皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった[19]

自身が出産した3人の息子たち。
左から、長男の迪宮裕仁親王(昭和天皇)、三男の光宮宣仁親王(高松宮)、次男の淳宮雍仁親王(秩父宮)
1906年頃撮影)
欧米の上流階級では、幼少期の男子にも女子の服装を着させて養育させる習慣があった事から、皇室でもそれを取り入れることになった。
完成当初の東宮御所(現在の赤坂迎賓館
1909年3月撮影)

帰京後の8月10日に第三子を懐妊するが、同月25日に流産した[20]。翌年に再び懐妊し、1905年(明治38年)1月3日に第三皇男子(第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した。前年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。3月22日、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子供たちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った。皇太子妃節子は、別離の悲しみを和歌に残している。

ベルツは、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え、家族の時間を持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった。

1907年(明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した下田歌子(学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典と対立して退職した[21]。翌1908年(明治41年)4月からは迪宮が、翌年からは淳宮が学習院に入学した。

1909年(明治42年)5月29日、皇太子同妃は横須賀に行啓し、戦艦敷島に乗艦して海軍の演習を台覧した[22]。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた[23]。同年には、御成婚祝の新居として建設された東宮御所(赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子供たちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった[24]

1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる[25]。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮葉山へ誘った[26]。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子西本願寺法主大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日腸チフスの診断を受けた[27]4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した[28]。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く[29]、また皇后は自ら賢所で祈願した(賢所御供米)を贈った[28]

皇后時代

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1912年、即位に際し撮影

1912年(明治45年・大正元年)7月30日、義父・明治天皇崩御に伴う、夫・嘉仁親王皇位継承践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した。

1915年(大正4年)12月2日、第四皇男子(第四子/末子)澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産。

1916年(大正5年)春、神武天皇二千五百年山稜式年祭に合わせて天皇と共に関西に行幸啓し、一部別行動をとった[30]3月29日に皇后は東京を発ち、名古屋を経て[注釈 4]4月1日伊勢の神宮平安装束で参拝した[31]。皇后の天照大神への傾倒ぶりを示すように、新婚の15年前とは参拝の方法が全く異なっていた[31]。翌2日、春日大社を参拝後、京都で天皇と合流した[31]。翌3日は夫妻で神武天皇陵を拝礼し、4日は正倉院及び奈良帝室博物館を行幸啓し、その後、単独で奈良高等女子師範学校に行啓した[32]。皇后は正倉院で、光明皇后に対する関心を深めた[33]。4月5日、皇后は単独で京都を訪問した[33]。少女期以来の訪問となる京都御所では、昨年の即位礼のごとくかがり火がたかれ、大嘗祭のまま保存されていた各殿舎に拝礼し、大嘗祭を追体験した[34]。翌4月6日は、明治天皇陵及び昭憲皇太后陵への参拝後、九条家の菩提寺東福寺に行啓した[34]。東福寺では、妹大谷紝子大谷光明夫人)や九条篷子(渋谷隆教男爵夫人)、義妹九条武子九条良致夫人)ら九条家及び京都仏教ゆかりの人々と面会した[35]。4月7日は紫宸殿高御座御帳台を見学後、関西行啓中の裕仁親王と会い、さらに翌4月8日は石清水八幡宮を参拝後、皇后の希望で二条城へ行啓した[36]。4月9日、名古屋の熱田神宮を経由して帰京[37]

その後も、たびたび天皇の行幸に同行した。昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕皇后御親蚕)に取り組んだ。養蚕業に関心を持ち続け、1917年(大正6年)及び1920年(大正9年)に関東近郊の紡績工場を訪問している[38]。灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた[39]

日本赤十字社により、1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。皇后は4回、見舞金を下賜している。また実際に、単独公務として日本国内の施設に収容されたポーランド孤児たちを慰問するなどもした。

華族女学校時代の恩師である石井筆子と、その夫の石井亮一が経営する滝乃川学園(日本最初の知的障害者施設)を物心両面から支援し、それは生涯にわたって続いた。1921年(大正10年)に、滝乃川学園が園児の失火から火災を起こし、施設が焼失し、園児にも死者が出たことから、事業の継続を一時断念した石井夫妻に、内旨と下賜金を贈り、再起を促したのも皇后の尽力であった。そのため、学園では、創立者の石井亮一・筆子夫妻、理事長の渋沢栄一に加え、貞明皇后を「学園中興の母」として語り継ぎ、今なお崇敬している。

やがて大正天皇の体調悪化が顕著となり、1919年(大正8年)秋には自ら新嘗祭を執り行えない事態となった[40]。翌1920年(大正9年)春から、政府は天皇の体調不良を公表するようになる[41]

一方、皇后は救癩事業(ハンセン病)に使命感を抱くようになり、沼津御用邸へ赴く途上、ハンセン病療養施設「神山復生病院」があることに気付くと、翌1921年(大正10年)に下賜金を与えて活動を支援した[42]皇太子裕仁親王の欧州訪問については当初反対の立場で、下田歌子を通じ霊能者と称する飯野吉三郎の「霊旨」にも影響されていたが、やがて容認に傾いた[43]原敬首相は、皇后の反対理由が天皇の体調問題にあると見抜き、皇后から「政事に干渉せざる積なり」との譲歩を引き出して皇太子洋行を実現させた[44]。皇后は神功皇后に縁深い香椎宮(福岡)や住吉大社大阪)に使者を派遣し、皇太子の無事を祈願した[44]。皇太子が帰国後、後宮改革に着手しようとすると、一夫一妻制を推進していたはずの皇后は難色を示した[45]

大正天皇の療養、皇后単独での活動

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関東大震災の被災者を慰問
1923年(大正12年)9月15日
1922年(大正11年)、イギリスエドワード王太子(後の国王エドワード8世)の訪日時、摂政裕仁親王(後の昭和天皇)とともに

1921年(大正10年)11月25日、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、皇太子裕仁親王が満20歳(数え年21歳)で摂政に就任した[46]。大正天皇は実権を喪失した。

この摂政就任に際し、その正当性の強調のため大正天皇は幼少期の病に起因した「御脳力の衰退」等の病状があることが公表された[47]が、天皇自身はまだ言葉や判断力も明晰で、葉山御用邸近傍に行幸することも可能だった[48]。侍従の間では、在位を続けるべき派と、引退して療養に専念すべき派で対立が続いていた[49]

こうした中、1922年(大正11年)3月、貞明皇后は大正天皇の快癒祈願のため、福岡県への行啓を行った[50]。皇后の九州行啓は、神功皇后以来とされた一方、天皇が重態と推測されることから盛大な奉迎は見送る世相であった[51]。しかし、最終的には主目的の香椎宮の他、福岡県内の神社や公的機関、経路上の厳島神社広島県)や住吉大社大阪府)が追加され、さらに皇后の希望で海軍兵学校在学中の第3皇子高松宮宣仁親王との面会も設けられ、皇后単独としては異例の大規模な行啓となった[52]。こうして行啓中の3月21日、香椎宮で皇后が計20分に及ぶ長い祈りを神功皇后に捧げたのと同日、宮中では皇太子裕仁親王により春季皇霊祭が執り行われていた[53]

1923年(大正12年)9月1日関東大震災発生当時、天皇・皇后は日光田母沢御用邸に滞在中だった。皇后は天皇に代わる政治的主体として動き、9月13日に「宮内省巡回救療班」を設置し、計8万枚配布したビラには、皇后の御心に由来するメッセージが記されていた[54]。第2皇子秩父宮雍仁親王は直ちに帰京し、9月3日に被災地を巡回したが、摂政宮皇太子は事態対応に追われ、巡回できたのは15日になってからだった[55]。政府が帝都復興院を設置したのは9月27日だった。皇后は9月29日に帰京すると、泉橋慈善病院を訪問し、翌30日には日本赤十字社病院を皮切りに、病院や罹災者収容施設を多数訪問した[56]。一度、日光に戻るが、10月15日に天皇と共に帰京後も精力的に被災地訪問を続けた[57][注釈 5]

震災により皇太子の良子女王との結婚は延期されたが、この結婚について皇后は皇太子に新嘗祭を「御親祭の後式事御挙行の事」と天皇同様に行う条件をつけていた[58]。皇太子は台湾行啓から戻った春以降、半年余りにわたって準備と練習を重ね、無事に執り行うことができた[59]。震災以来規模を縮小していた宮中祭祀は、この新嘗祭から通常規模に戻された[58]。また、皇后は深夜まで起きて儀式の無事を気にかけ、この夜だけで44首の和歌を詠んだ[60]。さらに年末12月27日虎ノ門事件に際しては、皇太子の無事を「神の守り」と感謝する和歌を詠んでいる[61]

1924年(大正13年)2月から5月にかけて、かねてから尊敬していた筧克彦東京帝国大学教授[注釈 6]から「神ながらの道」の進講を受ける[62]、皇后はますます筧の教説に深く傾倒し、筧から学ぶ楽しみを「しきしまのやまとの国をつらぬけるまことの道にすゝむたのしさ」と歌っている[62]。宮中に筧の考案した皇国体操(やまとばたらき)を広め、筧にならって「万歳」ではなく「弥栄」を使用するようになった[62]

1924年(大正13年)秋、皇后は再び単独で関西を行啓した[63]。陵墓や社寺を訪問する中、12月7日には京都御所袿袴を着用し和歌の披講会を催した他、雅楽や蹴鞠を観賞している[64]

1926年(大正15年)8月、天皇の体調悪化は顕著で、天皇・皇后は葉山に滞在する。同年10月21日、詔書が発され長慶天皇が歴代天皇に加えられた[65]が、神功皇后は見送られた。翌22日、宮中三殿で親告の儀が執り行われた[66]が、皇后は典侍正親町鐘子に代拝させた[67]。儀式と同日、貞明皇后は遺書を書いていた[67][注釈 7]。高松宮はその内容について、筧克彦の書籍を秩父宮や三笠宮崇仁親王に形見分けすることや、周囲の人々への感謝が綴られていたとしている[67]

12月25日午前1時25分、皇后の看護や祈願も空しく、大正天皇が葉山御用邸崩御[68]摂政を務めていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)の践祚皇位継承)および皇太子妃良子(香淳皇后)の立后に伴い皇太后となる。大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた。

三笠宮妃百合子によれば、以後ずっと黒または紫の衣服しか着用しなくなった[69]

皇太后時代

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1949年撮影、満65歳頃

1927年(昭和2年)11月12日、皇太后は居所を青山東御所へ移す[70]。さらに1930年(昭和5年)5月1日、赤坂離宮青山御所内に新築された御殿が新たに「大宮御所[注釈 8]として皇太后の居所となった[71]。この大宮御所には皇太后宮大夫入江為守が描いた大和絵(大正天皇の遺影)が奉納された「御影殿(みえでん)」が造営され、毎日2回過ごすようになった[69]。沼津御用邸にも「御日拝室」が設けられ、滞在中は同様に過ごした[72]。大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると御影殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるように」語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。この間はこの部屋へ人が入ることは絶対に許されていなかったという[73]。 またこの年の1月21日から昭和天皇宮中祭祀における旬祭の親拝が従来の毎月一日のみから十一日、二十一日も行うことが正式となり天皇の宮中祭祀が激増したのだが、この背景には皇太后の存在があったと言われ、皇太后は天皇に対し「形式的ノ敬神は不可ナリ、真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ」と語っていたという[74]

1931年(昭和6年)、皇太后からの下賜金をもとに「癩予防協会」が設立された。彼女の誕生日の前後が「癩予防デー」となった。なお現在は「ハンセン病を正しく理解する週間」と改称されている。皇太后の経済支援により生活が救済された患者もいる一方、「予防」のためとして強制隔離が正当化された面も否めない。また一連の活動が皇太后の真意に関わらず「皇恩」「仁慈」として、その後も政治利用された側面もある[75]

皇太后はしばし政治にも介入したようで、2・26事件後に組閣された広田広毅内閣の閣僚を呼んで単独で会ったり、日中戦争で行き詰っていた近衛文麿を激励したといい、元老西園寺公望はこのような皇太后の政治介入に警戒の念を抱いていたという[76]

終戦前、沼津の御用邸で過ごしていた貞明皇后と接触の深かった山本玄峰老師は田中清玄らに、「皇太后様は、戦争でこれ以上国民に苦しみを与えたくないと、いかい(=大変)心を痛めてござるわ」ともらしていた。 一方で皇太后は戦況を理解しておらず最後まで戦争の勝利を祈る姿勢を崩しておらず、戦況の悪化を理解していた昭和天皇は戦争末期には皇太后に会うことを恐れていたとも言われている[77]

大戦末期、貞明皇后の大宮御所軽井沢(旧末松謙澄別荘[78])へ移転させる案が浮上し、別荘の改修工事が急ピッチですすめられていた。1945年5月には東京の大宮御所が空襲により焼失し、同年7月には沼津御用邸も焼失。皇太后は直前まで天皇らとともに東京に残ることを望んだが、皇室内での直々の説得もあって最終的には軽井沢への疎開を了承した。6月14日に疎開を勧めるために昭和天皇は大宮御所を訪問するのだが、天皇は訪問直前に緊張のあまり嘔吐し、翌日には終日寝込んだという[79]。 しかし別荘の工事完成を目前にして終戦となり、その結果皇太后は終戦5日後から4ヶ月ほど軽井沢に疎開することになった[80][81]。この背景には皇太后を政治から遠ざけたい昭和天皇の考えがあったとされ、8月16日の夕方から高松宮が大宮御所で4時間余りにわたって説得したという[82]

天皇は戦争末期の1945年(昭和20年)の7月30日に宇佐神宮、8月2日に香椎宮に勅使として水谷公揖を、8月1日には埼玉県大宮の氷川神社に勅使・本居弥生を派遣して敵国撃破を祈願したが、この勅使派遣には皇太后の意向があったと見られている[83]

この後、皇太后は1945(昭和20年)年12月5日にいったん帰京するものの、17日からは沼津御用邸西附属邸に移り、大宮御所の竣工に合わせて1946年(昭和21年)12月19日に帰京した[84]。 1947年(昭和22年)1月5日には天皇、皇后と御祝御膳を会食しており、年末年始の天皇、皇后の訪問や皇太后の参内も再開された[84]

皇太子明仁親王(現:明仁上皇)を含む九人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王寬仁親王はたびたび御所に訪問したことから、一緒に羽根つきままごと遊びを付き合った[85]

1951年(昭和26年)5月17日狭心症により大宮御所で崩御享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま崩御した。なお当日、昭和天皇は学者たちより進講を受けており、あまりにも突然の母宮の訃報を聞きしばらく言葉が無かった。

大喪の儀

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1951年(昭和26年)6月の貞明皇后大喪

1951年(昭和26年)6月7日に「貞明皇后(ていめいこうごう)」と追号され(昭和天皇勅定)、宮内庁長官より同年6月9日に官報告示が執り行われた[86]。「貞明」の出典は、『易経』の一文「日月之道、貞明者也」(日月の道はただしくして明らかなり)から採られた。

大喪の儀」は6月22日に行われ、長男の昭和天皇は以下の誄辞(るいじ、追悼の言葉)を述べている。

「裕仁」敬みて、皇妣(母)の霊前に白す、皇考(父・先帝)の喪を服してより二十有五年、慈恩を仰き奉養に勉め楽を尽すの一日も長からむことを願へるに俄に大故に遭ふ、驚愕悲痛追慕止むなし、親(櫬)殿に殯宮に親祭すること三十余日、茲に礼を具へ儀を挙け将に多摩皇考山陵の次に斂葬せむとす、霊車停め難く幽明永へに違ふ嗚呼哀しいかな

— 昭和26年6月22日「大喪の儀」にて

御陵は多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)。歴代皇后の中で、初めて関東の地に御陵が造営された。

日本国憲法と現行の皇室典範に基づき葬られた最初の皇后である。戦後の新皇室典範では皇族の葬儀の規定が設けられていないこと、また当時は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下であることから国葬とすることが憚られる状況にあった[87]。このため、国葬の有無を明確にしないまま「事実上の国葬」として扱われ、一連の大喪儀の儀式が行われた[88]

1952年(昭和27年)1月1日付で、皇太后宮職が廃止された[89]ことにより、日本の後宮制度は終焉を迎えた。

年譜

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栄典

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家系

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1949年(昭和24年)、明仁親王(当時16歳)とともに

父親は九条道孝孝明天皇女御である英照皇太后は伯母(父の姉)にあたる。

母の野間幾子(1849-1946、二条家家臣野間頼興娘、京都生まれ)は15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、九条道実菊麿王妃範子大谷籌子、節子(貞明皇后)をもうけた[91][92]。のちに中川局と呼ばれ、晩年は仏号を浄操院とした[93]

姉・範子山階宮菊麿王の妃。同母姉・籌子西本願寺門主・大谷光瑞の妻。異母弟・九条良致の妻は歌人として著名な九条武子である。

明治天皇とは義理の従兄妹でもある。

なお、豊臣秀吉の甥の豊臣秀勝と江(崇源院)との娘である豊臣完子九条幸家に嫁ぎ、石田三成の曽孫である自証院徳川家光との娘である霊仙院の曾孫の信受院九条幸教に嫁いでいるため、直系の子孫である貞明皇后を通して現在の皇室織田氏浅井氏豊臣氏徳川氏石田三成の血を受け継いでいる(崇源院#系譜石田三成#子女参照)。

皇子

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夫の大正天皇との間に、4人の皇男子を儲けた。皇女子はなかった。現行の皇室典範が施行された後の1947年(昭和22年)10月14日GHQの指令によって伏見宮系の皇族と宮家皇籍離脱した際、昭和天皇と弟宮の三男子及び各妃とその子女が皇室に留まった。大正天皇・貞明皇后夫妻は、2022年令和4年)1月時点における皇室典範の定めるところによる皇室構成員の中で生まれながらの皇族である者(徳仁明仁・全ての親王内親王女王最近共通祖先となっている。先述の通り、次男の淳宮雍仁親王出産後の1903年(明治36年)夏に流産している[20]

御称号及び身位 読み 生年月日 没年月日 続柄 備考
迪宮裕仁親王 みちのみや ひろひと 1901年〈明治34年〉
4月29日
1989年〈昭和64年〉
1月7日(満87歳没)
第一皇男子
(第1子)
良子女王久邇宮家)と結婚(→香淳皇后)。
摂政1921年(大正10年)11月25日
1926年(大正15年)12月25日
昭和天皇(第124代天皇)
子女:2男5女(7人)
淳宮雍仁親王 あつのみや やすひと 1902年〈明治35年〉
6月25日
1953年〈昭和28年〉
1月4日(満50歳没)
第二皇男子
(第2子)
松平節子と結婚(→雍仁親王妃勢津子)。
雍仁親王(宮号:秩父宮
子女:無し。
光宮宣仁親王 てるのみや のぶひと 1905年〈明治38年〉
1月3日
1987年〈昭和62年〉
2月3日(満82歳没)
第三皇男子
(第3子)
徳川喜久子と結婚(→宣仁親王妃喜久子)。
宣仁親王(宮号:高松宮
断絶した有栖川宮家の祭祀を継承。
子女:無し。
澄宮崇仁親王 すみのみや たかひと 1915年〈大正4年〉
12月2日
2016年〈平成28年〉
10月27日(満100歳没)
第四皇男子
(第4子)
高木百合子と結婚(→崇仁親王妃百合子)。
崇仁親王(宮号:三笠宮
子女:3男2女(5人)
1921年(大正10年)撮影、4人の皇子。
左から皇太子裕仁親王(長男)、崇仁親王(四男)、宣仁親王(三男)、雍仁親王(次男)。

皇子及びその妃たちとの関係

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「姑として、嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」という。皇族出身(久邇宮家の嫡出の女子で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家藤原氏五摂家九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた。

香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。貞明皇后から香淳皇后に注意は女官長を通じて行なわれていたが、貞明皇后に仕える竹屋津根子皇太后宮女官長、香淳皇后に仕える竹屋志計子女官長は姉妹であり、「互いに言伝しにくかった」と回想している。

宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子がである皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。

一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃雍仁親王妃勢津子宣仁親王妃喜久子崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日桃の節句雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。勢津子妃は、晩年の回想記『銀のボンボニエール』[94]において、そのことを「お子様4人全員が親王様(男子)であったので、毎年お楽しみにされているのでしょう」と語っている。

女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。とはいえ決して昭和天皇との母子関係は悪くなく、「皇居内で見かけた鳥の名前について子供染みた我の張り合いをした」というエピソードもある。また第二次世界大戦時においては、戦況の悪化の中でも疎開を拒む母皇太后を気遣ったことが、昭和天皇が最後まで東京を離れなかった一因ともされる。

しかし「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」とも言われる。上記の雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる[注釈 9]

逸話

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生涯にわたって数多くの和歌[95][96] を著し、また夫・大正天皇の影響もあり、漢詩にも取り組んだ[97]ハンナ・リデルのハンセン病病院回春病院を援助していたが、後にハンセン病全体に関心を持ち、らい予防協会ができ、皇后の没後寄贈された基金をもとに「藤楓協会」というハンセン病援護団体の設立となった[98]

参考文献

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  • 山田米吉『大御光』日本図書刊行会、1941年。全国書誌番号:1101006。 
  • 小泉和子 編『昭和の結婚』河出書房新社〈らんぷの本〉、2014年11月。ISBN 978-4309750125 
    • 住友和子「「ホテル結婚式」の始まり」『昭和の結婚』、66-72頁。 
  • 原武史『皇后考』講談社、2015年2月。ISBN 978-4062193948 
  • 原武史『「昭和天皇実録」を読む』岩波書店〈岩波新書〉、2015年9月18日。 

関連文献

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回想・伝記

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その他

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登場する作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 明治天皇の后昭憲皇太后(一条美子)には子が無く、明治天皇もその他の側室との間に、男子が皇太子嘉仁親王以外いない状況であった。その嘉仁親王も、幼少期から健康状態が不安定だった。なお、禎子女王は山内豊景侯爵に降嫁したが、子は無い。
  2. ^ 華族女学校校長の細川潤次郎、同校教師の下田歌子が関与する、日比谷大神宮の内部機関[8]
  3. ^ 実質的な新婚旅行として皇室ゆかりの地を訪問する習慣は、昭和天皇、上皇(明仁)、今上天皇(徳仁)をはじめ、天皇及び皇族に定着した。
  4. ^ この際利用した8号御料車は解体され、一部が鉄道博物館に現存する[31]
  5. ^ 大規模災害に際し、まず皇室がメッセージを発信し、その後実際に被災地を訪問するというプロセスは、現代も続いているが、天皇の権威が強い大正期の方が「皇后単独で」活躍する余地が大きかった[57]
  6. ^ 1935年(昭和10年)から1952年(昭和27年)にかけ宮内省(のち宮内庁)に勤務し、皇太后宮事務主管等を務めた筧素彦は、筧克彦の子息。
  7. ^ 崩御後に大宮御所で発見された[67]
  8. ^ これに伴い京都皇宮内の大宮御所は「京都大宮御所」と改称された。
  9. ^ 皇室ジャーナリスト河原敏明の複数の著書より

出典

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  1. ^ 『歴代皇后125代総覧』412頁10行目
  2. ^ 『歴代皇后125代総覧』413頁2行目。(新人物往来社)
  3. ^ a b 原 2017 p.146
  4. ^ 原 2017 p.136
  5. ^ 原 2017 p.141-143
  6. ^ 原 2017 p.145
  7. ^ 原 2017 p.132-133
  8. ^ a b c 住友 2014 p.68
  9. ^ 原 2017 p.135
  10. ^ 原 2017 p.150
  11. ^ 『歴代皇后125代総覧』の413頁
  12. ^ 原 2017 p.150-151
  13. ^ 原 2017 p.151-158
  14. ^ 原 2017 p.161-162
  15. ^ 原 2017 p.163
  16. ^ 原 2017 p.164
  17. ^ 原 2017 p.164-168
  18. ^ 原 2017 p.168
  19. ^ a b 原 2017 p.170
  20. ^ a b 原 2017 p.174
  21. ^ 原 2017 p.189
  22. ^ 原 2017 p.184
  23. ^ 原 2017 p.185
  24. ^ 原 2017 p.193
  25. ^ 原 2017 p.193-194
  26. ^ 原 2017 p.194
  27. ^ 原 2017 p.198-199
  28. ^ a b 原 2017 p.199
  29. ^ 原 2017 p.200-201
  30. ^ 大正5年宮内省告示第3号(『官報』第1090号、大正5年3月23日)(NDLJP:2953200/1/1
  31. ^ a b c d 原 2017 p.239
  32. ^ 原 2017 p.239-240
  33. ^ a b 原 2017 p.240
  34. ^ a b 原 2017 p.241
  35. ^ 原 2017 p.241-242
  36. ^ 原 2017 p.242-243
  37. ^ 原 2017 p.243
  38. ^ 原 2017 p.268
  39. ^ 『官報』第1903号「宮廷録事」、大正7年12月6日(NDLJP:2954017/1/3
  40. ^ 原 2017 p.263
  41. ^ 原 2017 p.267
  42. ^ 原 2017 p.267-268
  43. ^ 原 2017 p.270
  44. ^ a b 原 2017 p.271
  45. ^ 原 2017 p.277
  46. ^ 大正10年11月25日「詔書」、大正10年11月25日官報号外(NDLJP:2954911/1/16
  47. ^ 原 2017 p.279
  48. ^ 原 2017 p.282-283
  49. ^ 原 2017 p.283
  50. ^ 大正11年宮内省告示第7号(『官報』第2873号、大正11年3月3日)(NDLJP:2954989/1/2
  51. ^ 原 2017 p.287-288
  52. ^ 原 2017 p.289
  53. ^ 原 2017 p.291-292
  54. ^ 原 2017 p343-344
  55. ^ 原 2017 p344-345
  56. ^ 原 2017 p346
  57. ^ a b 原 2017 p.347
  58. ^ a b 原 2017 p.348
  59. ^ 原 2017 p349-350
  60. ^ 原 2017 p349
  61. ^ 原 2017 p350
  62. ^ a b c 西田彰一「筧克彦の皇族論について」2016年、立命館大学人文科学研究所紀要
  63. ^ 大正13年宮内省告示第40号(『官報』第3676号、大正13年11月22日)(NDLJP:2955824
  64. ^ 原 2017 p376-377
  65. ^ 大正15年詔書(『官報』号外、大正15年10月21日)(NDLJP:2956399/1/18
  66. ^ 大正15年宮内省告示第33号(『官報』号外、大正15年10月21日)(NDLJP:2956399/1/43
  67. ^ a b c d 原 2017 p.381
  68. ^ 『官報』号外「告示」、大正15年12月25日(NDLJP:2956454/1/20
  69. ^ a b 原 2017 p386
  70. ^ 昭和2年宮内省告示第28号(『官報』第263号、昭和2年11月12日)(NDLJP:2956723/1/3
  71. ^ 昭和5年宮内省告示第21号(『官報』第998号、昭和5年5月1日)(NDLJP:2957465
  72. ^ 原 2017 p.388
  73. ^ 原武史 2015, p. 117.
  74. ^ 原武史 2015, p. 107‐108.
  75. ^ 片野真佐子『皇后の近代』、163 - 171頁。(講談社選書メチエ2003年
  76. ^ 原武史 2015, p. 108.
  77. ^ 原武史 2015, p. 138‐141.
  78. ^ 軽井沢ニュース2013年8月9日発行 第120号(5)
  79. ^ 原武史 2015, p. 144.
  80. ^ 高松宮宣仁親王(朝日新聞社, 1991年)419頁
  81. ^ 軽井沢ニュース2013年7月12日発行 第119号(5)
  82. ^ 原武史 2015, p. 154.
  83. ^ 原武史 2015, p. 150‐153.
  84. ^ a b 原武史 2015, p. 158.
  85. ^ 「在りし日の御日常 不幸な人々に慈しみ 御霊まいりに明け暮れ」『朝日新聞』昭和26年(1951)5月18日1面
  86. ^ "官報" (HTML). 国立国会図書館. 9 June 1951. p. 18. 2019年12月11日閲覧
  87. ^ 「葬儀の方法 宮内庁で協議」『朝日新聞』昭和26年5月18日1面
  88. ^ ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事”. 宮内庁ホームページ. 2020年3月25日閲覧。
  89. ^ 昭和26年法律第317号(『官報』第7488号、昭和21年12月22日)(NDLJP:2964041/1/1
  90. ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
  91. ^ 『貞明皇后』主婦の友社, 1971、p35
  92. ^ 産経新聞連載 川瀬弘至「朝けの空に−貞明皇后の66年」第2回
  93. ^ 『歴代皇后人物系譜総覧』新人物往来社, 2002、p280
  94. ^ 秩父宮妃勢津子『銀のボンボニエール 親王の妃として』(主婦の友社、1991年、講談社+α文庫、1994年)
  95. ^ 宮内庁書陵部編『貞明皇后御歌集・御詩集』(和装本3冊組、1960年(昭和35年)、改訂版『貞明皇后御集』 2001年(平成13年))。
  96. ^ 『貞明皇后御歌集』(全国敬神婦人連合会編、主婦の友社、1988年(昭和63年)、解説筧素彦)
  97. ^ 西川泰彦『貞明皇后その御歌と御詩の世界 貞明皇后御集拝読』を参照。
  98. ^ 出雲井晶『天の声 小説・貞明皇后と光田健輔』を参照
  99. ^ 高等女官だった坂東登女子の回想。脚注・解説を加え改訂再刊
  100. ^ 天の声―小説・貞明皇后と光田健輔”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2023年5月14日閲覧。
  101. ^ 晶, 出雲井 (1992). 天の声 : 小説・貞明皇后と光田健輔. 東京: 展転社. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002188355-00 
  102. ^ 「大正の后―昭和への激動」 PHP文芸文庫”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2023年5月14日閲覧。
  103. ^ 貞明皇后 激動の人生をたどる小説「朝けの空に」好評連載中”. プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES. 2023年5月14日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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昭和天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.120代天皇
仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
8.121代天皇
孝明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.正親町雅子
 
 
 
 
 
 
 
4.122代天皇
明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18.中山忠能
 
 
 
 
 
 
 
9.中山慶子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.中山愛子
 
 
 
 
 
 
 
2.123代天皇
大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20.柳原隆光
 
 
 
 
 
 
 
10.柳原光愛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21.正親町三条則子
 
 
 
 
 
 
 
5.柳原愛子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22.長谷川雪顕
 
 
 
 
 
 
 
11.長谷川歌野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.124代天皇
昭和天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24.二条治孝
 
 
 
 
 
 
 
12.九条尚忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25.樋口信子
 
 
 
 
 
 
 
6.九条道孝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26.南大路長尹
 
 
 
 
 
 
 
13.菅山
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.九条節子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14.野間頼興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7.野間幾子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


貞明皇后

1884年6月25日 - 1951年5月17日

日本の皇室
先代
昭憲皇太后
(美子)
第123代皇后
貞明皇后

1912年7月30日 – 1926年12月25日
大正元年7月30日 – 大正15年12月25日
次代
香淳皇后
(良子)
先代
昭憲皇太后
(美子)
皇太后
1926年12月25日 – 1951年5月17日
大正15年12月25日 – 昭和26年5月17日
次代
香淳皇后
(良子)