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徳川義寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
とくがわ よしひろ

徳川 義寛
生誕 1906年11月7日
日本の旗 日本東京府
死没 (1996-02-02) 1996年2月2日(89歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学文学部美学美術史学科
ベルリン大学
職業 侍従(1936年 - 1969年)
侍従次長(1969年 - 1985年)
侍従長(1985年 - 1988年)
公益法人日本博物館協会会長
子供 徳川義真
父:徳川義恕男爵
母:徳川寛子
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徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年11月7日 - 1996年2月2日)は、昭和天皇の側近、侍従長

尾張(名古屋)藩徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子北白川宮永久王の妃で皇籍離脱後は香淳皇后付の女官長、皇太后宮女官長を務めた。

生涯

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1906年(明治39年)、尾張徳川家分家、徳川義恕の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和2年)、学習院高等科を卒業し、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。1936年(昭和11年)、侍従となる。

終戦前夜、降伏を阻止しようとする陸軍幹部らの反乱(宮城事件)にあい、脅されながらも昭和天皇玉音放送の録音盤を守った[1][2]

1985年(昭和60年)から1988年(昭和63年)には入江相政の後任を受けて侍従長を務め、昭和天皇に仕えた。

1964年(昭和39年)には姪の華子義宮正仁親王と結婚して常陸宮家が興り、常陸宮妃となる。1969年(昭和44年)からは、実妹北白川祥子が女官長に就任し、兄妹で天皇・皇后に長く仕えた。 侍従長退任後は、公益法人日本博物館協会会長を務めた。没後の1999年(平成11年)に、終戦時の詳細な日記『徳川義寛終戦日記』が刊行され、話題となった。

年譜

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  • 1936年(昭和11年)11月20日 - 侍従
  • 1969年(昭和44年) - 侍従次長
  • 1985年(昭和60年)10月 - 1988年(昭和63年)4月 - 侍従長。


家族

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  • 妻:博子
三条公輝の娘。
  • 長女:美智子
マルハニチロの創業者中部幾次郎の孫(幾次郎の娘婿・中部義吉の次男)・中部鉄次郎に嫁いでおり、鉄次郎は元大洋漁業副社長の中部新次郎、元大洋漁業社長の中部藤次郎、元マルハ社長の中部慶次郎、元林兼産業会長の中部一次郎、元大洋クラブ会長の中部銀次郎などの従兄弟にあたる。なお、中部家は徳川家・津軽家を通して天皇家の縁戚にあたり、天皇家の外戚である久邇家の係累を通して仙石政敬梅溪通虎正力松太郎正力亨小林與三次池坊専永などと縁戚関係にある。
北白川宮永久王の妃で、戦後皇籍離脱。1969年(昭和44年)5月に女官長就任。
義孝津軽伯爵家に養子入りして襲爵)の四女。1964年(昭和39年)9月、義宮正仁親王と婚姻。
美術研究者だったが、20代で病没、作家三島由紀夫の青年期の親友。

著書

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  • 独墺(ドイツ・プロイセン、オーストリア)の美術史家(座右宝刊行会、1944年) 序文児島喜久雄
  • 皇居新宮殿(保育社カラーブックス、1969年) 公式ガイドブックに準ずる
  • 侍従長の遺言 昭和天皇との50年(朝日新聞社、1997年2月) 岩井克己(宮内庁・皇室担当記者)による聞き書き・解説
  • 徳川義寛終戦日記(御厨貴、岩井克己監修、朝日新聞社、1999年11月)

徳川義寛を演じた人物

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映画

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テレビドラマ

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脚注

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  1. ^ 日本人名大辞典+Plus,367日誕生日大事典, 20世紀日本人名事典,デジタル版. “徳川義寛(トクガワ ヨシヒロ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. DIGITALIO. 2024年8月19日閲覧。
  2. ^ 日本人名大辞典+Plus,367日誕生日大事典, 20世紀日本人名事典,デジタル版. “徳川義寛(トクガワ ヨシヒロ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. DIGITALIO. 2024年8月19日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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日本の爵位
先代
徳川義恕
男爵
(尾張)徳川家(分家)第2代
1946年 - 1947年
次代
華族制度廃止
先代
入江相政
侍従長
1985年 - 1988年
次代
山本悟