松平義敏
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保19年1月18日(1734年2月21日) |
死没 | 明和8年4月28日(1771年6月10日) |
改名 | 秀之助(幼名)→義敏 |
戒名 | 蒼岳院 |
墓所 | 岐阜県海津市南濃町上野河戸の行基寺 |
官位 | 従四位下左近衛少将、中務大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 美濃高須藩主 |
氏族 | 高須松平家 |
父母 |
父:徳川宗勝 母:馬場氏娘・お登世の方 |
兄弟 |
房姫、徳川宗睦、義敏、豊姫、義当、 勝長、勝綱、竹腰勝起、邦姫、 井上正国、内藤頼多、勝鷹、品姫、 恭姫、陽姫、内藤政脩ら15男11女 |
妻 | 正室:松平頼寛娘・幾 |
子 | 徳川治行、義裕、裕民、純姫 |
松平 義敏(まつだいら よしとし)は、江戸時代中期の大名。美濃国高須藩4代藩主。官位は従四位下・左近衛少将、中務大輔。
生涯
[編集]高須藩3代藩主・松平義淳(のちの尾張藩主・徳川宗勝)の三男として誕生。
元文4年(1739年)2月3日、父が本家の尾張藩を相続したため、高須松平家の家督を相続する。延享8年(1751年)8月15日、8代将軍・徳川吉宗らに拝謁する。同年12月18日、従五位下・中務大輔に叙任する。ただちに従四位下・左少将に昇進する。宝暦7年(1757年)、高須藩領で洪水が多く、減収が目立つことから、幕府から3000両が下される。明和2年(1765年)7月24日、高須から駒野に陣屋を移す許可を得る。
明和8年(1771年)、38歳で死去した。跡は長男の義柄(後の徳川治行)が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 徳川宗勝(父)
- お登世の方 - 清光院、馬場氏、側室(母)
正室
- 幾 ー 松平頼寛の娘
子女