下田歌子
しもだ うたこ 下田 歌子 | |
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生誕 |
1854年9月29日 日本 美濃国恵那郡岩村 (現在の岐阜県恵那市) |
死没 |
1936年10月8日(82歳没) 東京市赤坂区青山北町 |
墓地 | 護国寺(東京都文京区)・ 大名墓地 (岐阜県恵那市) |
職業 | 教育者 |
著名な実績 |
帝国婦人協会設立 実践女学校設立 |
下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐〈ひらお せき〉[1][2]、嘉永7/安政元年8月8日[3]〈1854年9月29日〉 - 昭和11年〈1936年〉10月8日)[4]は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人(号は香雪)。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。祖父は儒学者東条琴台。
略歴
[編集]美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)[1][5]にて、岩村藩士平尾鍒蔵と房子(挙母藩武久氏)の長女として生まれる[1][6]。実弟は平尾鍗蔵。
祖父東条琴台は江戸の医家から平尾家に婿入したが、鍒蔵が生まれた後、藩内学閥との確執から離縁。鉐の幼少期、父鍒蔵(1818-1898)は尊王攘夷論を説いたため、安政4年と明治元年に2度謹慎処分を受け、計10年の蟄居を強いられた。平尾家は倹約令も重なり困窮を極めたため、使用人に暇を与え、家財も売り、婦女子は畑仕事や蚕糸業に従事した[7]。
鉐は幼少期から無類の読書好きで新旧の和漢書を読破し、漢籍を父に、和歌を大野鏡光尼(上京後は八田知紀)に師事した。数え5歳頃から詩歌を作りはじめ、7歳のとき、桜田門外の変に際して水戸浪士らへの手向けの歌を父に促され、「櫻田に思ひ残りて今日の雪」と発句を詠じたという。また、書物を読んで善い事だと思うと、すぐに行動にうつす事も多かった。中国の孝行事例を集めた『二十四孝』にある、両親が蚊に刺されるのを防ぐため子が裸になって蚊を引き寄せたという逸話を読み、それを実行したという[8]。
明治維新後、祖父と父は各々新政府の招聘を受けて東京へ上ったため、旧暦明治4年4月(1871年)、数え18歳[9]で鉐も上京し、その途次、三国山の峠で「綾錦着てかへらずは三国山またふたたびは越えじとぞ思ふ」などの歌を詠んだ[10]。東京で初めて祖父琴台に会い、暫時身の回りの世話をした。
明治5年10月(1872年)、宮内省十五等出仕として女官に抜擢される。翌年より御書物掛に任じられ、昭憲皇后の御進講での陪聴や行啓時の供奉等を務めた。その才覚から皇后より寵愛され「歌子」の名を賜り[11]、平尾歌子と改名。新暦明治8年(1875年)6月、権命婦(十二等出仕)に補される。
明治12年(1879年)11月、宮内省出仕を依願辞職。岩村時代から平尾家と交誼のあった元丸亀藩士の剣術家下田猛雄と12月に結婚し、下田歌子と改名。まもなく夫が病に臥し、看病のかたわら、明治14年(1881年)に自宅で桃夭女塾を開講。当時の政府高官の妻の多くは芸妓や酌婦だったため、正統な学問のない彼女らに古典の講義や作歌を教えた。
明治17年(1884年)5月、夫猛雄が病死(享年39)。7月に宮内省御用掛(准奏任)に任じられ、華族女学校設置計画に参画。翌明治18年(1885年)9月に創設された華族女学校の幹事兼教授に任命された。翌年には学監に就任。華族の子女が学んだこの学校では古式ゆかしい儒教的な教育がなされた。
欧米教育視察
[編集]明治26年(1893年)春、歌子は常宮及び周宮両内親王の御養育主任佐々木高行より在官のまま欧米教育視察を拝命。皇室の伝統を保持しつつ、両内親王が海外賓客と接しても遜色ない時代に順応した皇女教育の調査を目的とするものであった。初めての海外渡航にあたり、歌子は西洋文化を取捨選択し長所のみを受け入れる態度で臨んだ[12]。
同年9月横浜を発ち、イギリスのブライトンで英語学校に通った後12月にはロンドンへ。そこでビクトリア女王の女官を務めるエリザベス・アンナ・ゴルドンの知遇を得て、ヴィクトリア女王の孫娘が受けている教育と母親たちの生活に触れた[13]。
市井の人々と親しく交わる女王一家と、王女が主婦として家庭を支える姿に下田は強い印象を受けた。やがて先々で出会う女性たちが豊富な知識、意志の強さ、行動力を持ち、それが教育と生活習慣によって培われたことを知る[14]。
明治27年(1894年)12月、歌子は皇女教育という目的を超え一般の女学校への視察を始めた[15]。 明治28年(1895年)の春にはチェルトナム・レディーズ・カレッジ(以下CLC)で校長ドロシア・ビールと面会[16]。
ビールは高齢で多忙だったにもかかわらず、学校の生徒やその家族と同様に歌子を気遣い、真摯な態度で接した。その厚意を歌子は「真の親切」と表し、その人格と学問の深さ、教育に対する高い理想に感銘した。その後、歌子はケンブリッジ大学の女子学寮ニューナム・カレッジと女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジ(The Cambridge Training College for Women Teachers、以下CTC。現ヒューズ・ホール)を視察[17][18]。
さらに湖水地方やスコットランド、フランス、ドイツ、イタリアなど大陸の女子学校を訪問。その間の5月8日にはヴィクトリア女王との謁見を果たした[19][20]。
これらの視察によって歌子はキリスト教の信仰が自主独立と慈善博愛の精神を育み、学校教育や生活習慣の基盤となっていることを理解する。それに加え育児、教育学、衛生、生理、看護法に関する知識は実利主義のもと最新の科学が教授されていた。キリスト教に対する評価は変えたものの、自らの信条を保ち下田は同年8月に帰国[21]。
その直後から皇女教育をめぐる宮中の勢力争いに加わっていくことになる[22]。
帰国後
[編集]帰国後、1898年11月、歌子らは帝国婦人協会を設立。当時庶民の女性があまりにも男性の言いなりにばかりなっていた姿に心を痛め、「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要。」と女性に教養を授け、品性を磨かせ、自活のチャンスを与えて女性の地位向上・生活改善をはかるべく奮闘した。1899年1月、麹町元岡町に事務所を開設し、3月、会則を発表し、12月、機関誌「日本婦人」創刊[23]。また、この年、中流階級の婦女子育成を目的として実践女学校および女子技芸学校を創立した[24]。
明治35年(1902年)、大日本通信高等女学校の教科書編纂を指導。三段式教授法を用いる。同年、中国人留学生と交流する中で知り合った戢翼翬と共同で出版社「作新社」を設立、同社は雑誌『大陸』を刊行のほか、日本の書籍の中国語訳を大量に出版した[25]。
明治39年(1906年)、華族女学校は学習院に統合され、陸軍大将・乃木希典が院長に就任。歌子[26]は軍人である乃木と方針をめぐって対立する。
明治40年(1907年)11月、歌子、学習院女学部長辞任[注釈 1]。翌月、勲四等宝冠章に叙せられた。
明治41年(1908年)歌子、実践女学校中等学部に加えて高等専門学部を開設、実践女学校が誕生し、その校長に就任した[29][30]。
大正7年(1918年)3月、板垣退助の妻・絹子に招聘されて、東京広尾の『順心女学校』(現校名:広尾学園中・高、所在地:東京都港区南麻布)創設にあたって初代校長となり、女子教育に取り組む[31]。
昭和11年(1936年)10月8日に肺炎のため赤坂区青山北町の自宅[32]で死去するまで、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎[29]も築いた。享年82。
栄典
[編集]- 1896年(明治29年)12月21日 - 正五位[33]
- 1901年(明治34年)12月26日 - 従四位[34]
- 1906年(明治39年)12月27日 - 正四位[35]
- 1907年(明治40年)12月29日 - 勲四等瑞宝章[36]
- 1908年(明治41年)4月30日 - 従三位(常宮昌子内親王成婚による特旨)[37]
- 1927年(昭和2年)10月13日 - 勲三等瑞宝章[38]
人物
[編集]容姿と才能に恵まれ、「明治の紫式部」ともあだ名されるが、反面政府の高官との浮名も絶えなかったと言われ、特に平民新聞は『妖婦下田歌子』と題した特集を連載するまでに至った。特に「日本のラスプーチン」とまで言われた祈祷師・飯野吉三郎の権力拡大のため尽力したとされ、のちの幸徳事件は飯野の差し金であるとの説もある。
著作
[編集]教科書編纂
[編集]- 和文教科書(全10巻:宮内省・中央堂、1886–1889年)
- 国文小学読本(全8巻、 高崎正風・末松謙澄校閲 :十一堂、1887年)
- 新撰女子国文教科書(全10巻:大日本図書、1902年)
- 女子日本歴史教科書(上下巻:文学社、1908年)
主著
[編集]- 家政学(上下巻:博文館、1893年)
- 新撰家政学(上下巻:金港堂書籍、1900年)
- 日本の女性(実業之日本社、1913年)[39][40]
- 礼法家事 婦人修養十講(家政研究会筆記、東京国民書院、1914年)[41]
- 家庭(実業之日本社、1915年)[42]
- 女子の礼法(国民書院、1916年)[43]
全集
[編集]- 香雪叢書:下田歌子著作集(全6巻、實践女學校出版部、1932–1934年)
- 下田歌子著作集 資料篇(全9巻、板垣弘子編、実践女子学園、1998–2002年:雑誌寄稿文を復刻)
- 新編 下田歌子著作集(実践女子大学下田歌子記念女性総合研究所監修、三元社、2016–2020年)
- 婦人常識訓
- 女子のつとめ【現代語訳】
- 女子の心得
- 結婚要訣
- 良妻と賢母
その他
[編集]岩村城跡にある城跡公園に勉学所、顕彰碑、銅像が建てられている[44][45]。
下田歌子賞は、エッセイ・短歌の公募賞、平成15年(2003年)設立。生誕150年の平成16年(2004年)を控え、下田のふるさとの旧岩村町が主催し(現・恵那市岩村町)、岐阜県、実践女子学園とPHP研究所の協力を得た[46][47]。恵那市は先人顕彰事業「下田歌子賞」として同実行委員会の選んだ受賞作品集を発刊し、2023年に20周年を迎えた[注釈 2]。
補注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『下田歌子先生伝』1頁。
- ^ 牧野和子・杉原萌『きらりうたこ』実践女子学園、2011年3月3日、168頁。ISBN 9784797985573。
- ^ 安政への改元は嘉永7年11月であるが、明治以前の改元は当該年の元日に遡って元年とみなされたため、公式上は嘉永7年=安政元年とされる。
- ^ 下田歌子記念女性総合研究所『下田歌子小伝 -下田歌子と実践女子学園の歩み』実践女子学園、2022年1月10日、1,31頁。
- ^ 下田歌子記念女性総合研究所『下田歌子小伝 -下田歌子と実践女子学園の歩み』実践女子学園、2022年1月10日、1頁。
- ^ 広井多鶴子『下田歌子と現代日本』勁草書房、2021年8月25日、335頁。ISBN 9784326603398。
- ^ 『下田歌子先生伝』第一章家系。
- ^ 『下田歌子先生伝』第二章神童。
- ^ 満年齢では16歳と8か月。
- ^ 『下田歌子先生伝』98頁(東路の日記より)。
- ^ 宮中に上がって間もないころ鉐は、春の月を歌に詠んだ。皇后より「あなたは歌の才能がある。これからは歌子と名乗りなさい」と言われたとされる。
- ^ 中村2006、13-14頁。大関1994、3頁。宮内1973、285頁。佐々木は明治天皇と直接折衝し、この欧米教育視察が下田の仕事に対する箔付けを含むことを説明している。宮内省や華族女学校でも反対意見があり、視察の前下田は華族女学校学監を辞し教授在任となり、さらに表向きは自ら願い出る形で渡航が許可された。明治天皇の下命は出発直前の明治28年8月24日となった。
- ^ 森1995、6-9頁。中村1989、208-211頁。中村2006、11-22頁。エリザベス・アンナ・ゴルドン(Elizabeth Anna Gordon)(1851-1925)はイギリスの比較宗教学者。ランカシャーに生まれ、スコットランドの名門貴族ジョン・E・ゴルドンと結婚。2男3女を育てるかたわらヴィクトリア女王の女官を務めた。1886年、35歳でオックスフォード大学を卒業。大学ではF・M・ミュラーに師事。1891年に訪れた日本の自然と文化に魅了され、帰国後日本人留学生を援助。英米加の新聞に呼びかけ洋書9万5千冊を蒐集、同門の高楠順次郎を介しそのうち2万5千冊を「日英文庫」として日比谷図書館に寄贈した(戦災により焼失)。1907年の再来日を機に日本を拠点に比較宗教学の研究にあたる。1916年急遽帰国の際、研究資料や収集品を早稲田大学に寄贈。「ゴルドン文庫」として保管されている。1925年京都で病没。
- ^ 大関1994、7-8頁。13、4歳と思われる女王の孫娘(女王の第7子アーサーの長女マーガレットか。1894年当時12歳)は家庭教師を伴って女子学校に通い、普通の生徒と変わらない扱いを受けていた。女王の末子ベアトリスは慈善会に質素な服装で現れ店主と言葉を交わし買物をしていた。次女アリスはジフテリアに罹った末娘を自ら看護した結果、若くして亡くなっている。
- ^ 城田1992、76-81頁。下田は1894年(明治27年)7月6日付の谷干城への書簡で、日清は友好的な関係を保持すべきであるとの見解を表すとともに、視察期間の1年延長の希望とイギリスでの今後の方針について説明している。
- ^ 大関1994、10-12頁。ドロシア・ビール(1831-1906)はイギリスの教育者。1858年からCLCの第2代学長を務め、1893年にはオックスフォード大学セント・ヒルダズ・カレッジ (オックスフォード大学)を創設した。1898年に津田うめが学んだのがこのセント・ヒルダズである。CLCは1895年当時本科生徒数600名、講師70名を有するイギリス屈指の女子高等教育機関で、その学則や運営、試験制度、施設、経営方法は下田が1899年に実践女学校を設立する際影響を与えたとされる。
- ^ 大関1994、13-15頁。
- ^ 白井1995、96-100頁。CTCの初代校長エリザベス・フィリップス・ヒュースはビール校長のもとCLCの教師を務め、その後ニューナム・カレッジに学んだ女子師範教育の先駆者で、CTCはこれら2校をモデルに創られていた。
- ^ 中村2006、18頁。下田の視察期間は当初の1年と、半年の延長申請が2回分認められた。渡航先はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ベルギーの6カ国に及ぶ。加えて帰国の際に、英領カナダとアメリカにも廻る。
- ^ 中村2006、17-18頁。前年5月には青木周蔵駐英公使との調整がうまくいかず女王謁見の機会を逃した。女官の正装である袿袴での謁見にこだわった下田に対し、日英通商航海条約の調印間際だった青木が欧化主義の観点からこれを排したと中村悦子は推察している。日英通商航海条約は1894年(明治27年)7月16日に調印され、その翌年下田は袿袴姿での謁見を実現した。
- ^ 大関1994、16-18頁。
- ^ 安在2003、55-102頁。1895年(明治28年)10月から11月にかけ下田は佐々木高行の下を度々訪れ宮内大臣土方久元、侍従長徳大寺実則から帰国後何の沙汰もないと訴えたが、逆に徳大寺は佐々木を呼び出し下田が耶蘇教に変心したか問いただした。これは下田の欧米視察時に在英公使館に勤務していた宮内大臣秘書官長崎省吾が否定し一応決着する。変心の噂の出所は宮内省御用掛兼皇后附女官山川操子と佐々木は推察。翌年1月から2月には修学年齢に達した常宮の教育を巡って皇后大夫香川敬三、娘の宮内省御用掛兼皇后附女官香川志保子、山川操子と対立が起こる。2月2日下田は山川操子の姉で女子高等師範学校生徒取締兼舎監の山川二葉が、妹と香川志保子に代わって常宮の教育を勤めるため女高師に辞表を提出したと佐々木に報告した。
- ^ 日本婦人 1号
- ^ 歌人で実践女学園の創立者、死去『中外商業新報』昭和11年10月10日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p242 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 清末における下田歌子著『新選家政学』の翻訳・出版について 韓韡、言葉と文化 15 11-29, 2014-02-25、名古屋大学大学院国際言語文化研究科日本言語文化専攻
- ^ 「下田歌子が学習院女学部長 清水澄は学習院主事」『国立国会図書館デジタルコレクション』、76-77頁、NDLJP:1920436/1/61 、2024年2月1日閲覧。「[4・12東朝] 華族女学校を学習院に合併したる結果、昨日左の通り任命せられたり。下田歌子 任学習院教授(二等)兼任学習院女学部長。佐野安 任命学習院教授(三等)。図書属文学博士井上頼圀 兼任学習院教授(四等)。学習院教授法学博士清水澄 兼任学習院主事(五等)。山口造酒 任学習院教授(五等)。東京府師範学校教諭佐藤禮子、原田穂甫、大宮兵馬、三木五百枝 任学習院教授(七等)。野口ゆか、中島俊 任学習院教授(八等)。陸軍教授野矢丈夫、東宮職御用掛小野鋼之助 学習院教課教授業を嘱託す。を委嘱(兼奏任待遇)。左の諸氏は廃官となりたり。華族女学校教授兼幹事浅岡一、同教授土屋弘、鳥山啓、秋山四郎、坂正臣、愛知信臣、田中阿歌麿、木村貞、塚原律子、荒木鐸、羽多野濱、武田貢。」
- ^ 松本清張、鶴見俊輔「述昭和史発掘 番外篇 政治の妖雲・穏田の行者」『対談昭和史発掘』文藝春秋〈文春新書 ; 677〉、2009年1月。ISBN 978-4-16-660677-1 。2024年2月1日閲覧。
- ^ 『対談昭和史発掘』(2009年刊)の改題、再編集。松本清張「政治の妖怪・穏田の行者」『昭和史発掘』(特別篇)文藝春秋〈文春学藝ライブラリー:歴史 ; 36〉、2019年8月。ISBN 978-4-16-813082-3 。2024年2月1日閲覧。
- ^ a b 桜井役「四 女子中等敎育の発達」『女子教育史』増進堂、1943年、146頁(コマ番号82)頁。国立国会図書館デジタルコレクション、NDLJP:1454075 。
- ^ 新愛知新聞社東京支社「教育及出版—私立専門学校」『新愛知年鑑 : 附・中部日本特輯』 昭和9年、新愛知新聞社東京支社、昭和8、131頁(コマ番号78 0078.jp2)頁。NDLJP:1109490 。2024年2月1日閲覧。国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ >「下田歌子女史」『婦人年鑑』3(昭和12年版)、日本図書センター、1988年、227頁。ISBN 4-8205-0751-6, 4-8205-6636-9、東京連合婦人会の1937年発行物(昭和12年)の複製。
- ^ “下田歌子(第4版)”. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学. 2024年2月1日閲覧。
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第5547号「叙任及辞令」1901年12月27日。
- ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
- ^ 『官報』1908年1月4日「叙任及辞令」。
- ^ 『下田歌子先生伝』760頁(年譜)。
- ^ 『官報』1927年10月14日「叙任及辞令」。
- ^ 『大正期婦人問題文献集成』 & (1月)1998, p. 153, 19巻
- ^ 『大正期婦人問題文献集成』日本図書センター、1998年2月。ISBN 4-8205-4396-2 。2024年2月1日閲覧。国立国会図書館編・所蔵 : マイクロフィルム版。マイクロ資料。
- ^ 『大正期婦人問題文献集成』 1998, p. 184, 104巻(11月)
- ^ 『大正期婦人問題文献集成』 1998, p. 179, 110巻(2月)
- ^ 『大正期婦人問題文献集成』 1998, p. 196, 151巻(4月)
- ^ “城跡公園(太鼓櫓・下田歌子勉学所・知新館・菖蒲園)”. え~な恵那【岐阜県恵那市観光サイト】. 一般社団法人恵那市観光協会. 2021年9月10日閲覧。
- ^ “岩村城跡案内図” (pdf). 農林水産省中部森林管理局. 2021年9月10日閲覧。
- ^ “下田歌子賞”. 恵那市. 2021年9月10日閲覧。
- ^ “下田歌子賞”. 実践女子大学/実践女子大学短期大学部. 2021年9月10日閲覧。
- ^ 『受賞の思い出:下田歌子賞10周年を記念して』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会、2013年。<KH17-L30>。
- ^ 『夢』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集:下田歌子賞20周年記念〉2023年。<KH17-M207>。
- ^ 『先人に学ぶ』2012年。第9回受賞作品集。<KH17-L31>。
- ^ 『ふるさとの先人に学ぶ』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈第7回下田歌子賞受賞作品集〉、2010年。NCID BB03213097。
- ^ 『ふるさと』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集 ; 第11回〉2014年。<KH17-L142>。
- ^ 『志』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集 ; 第18回〉2021年。<KH17-M112>。
- ^ 『志:今、伝えたいこと』恵那市先人顕彰事業「下田歌子賞」実行委員会〈下田歌子賞受賞作品集 ; 第19回〉2022年。<KH17-M157>。
参考文献
[編集]書籍
[編集]- 故下田校長先生伝記編纂所編刊『下田歌子先生伝』1943年。
- 宮内庁臨時帝室編修局編『明治天皇紀 第8』吉川弘文館、1973年。
- 白井厚、白井堯子『オクスフォードから』日本経済新聞社、1995年。
- 森睦彦編著『ゴルドン夫人と日英文庫』森睦彦、1995年。
- 安在邦夫、望月雅士編『佐佐木高行日記 -かざしの桜』北泉社、2003年。
記事
[編集]- 国立公文書館「岐阜県士族平尾鍒蔵女歌子御用掛被命ノ件」添付履歴書(1884年1月)。
- 大関啓子「まよひなき道 -下田歌子 英国女子教育視察の軌跡-」『実践女子大学文学部紀要』第36号、実践女子大学、1994年3月、pp.1-21。
- 中村悦子「-講演 校祖下田歌子生誕百五十年記念行事- 下田歌子先生、欧米教育視察の周辺」『実践教育』第25号、実践女子学園中学校高等学校、2006年3月、pp.11-22。
- 中村悦子「E・A・ゴルドン夫人の生涯 -早稲田大学図書館100年の歩み-」『早稲田大学図書館紀要』第30号、早稲田大学図書館、1989年3月、pp.208-211。
- 城田秀雄「英国よりの手紙 -下田歌子から谷干城へ-」『実践国文学会誌 りんどう』第18号、実践国文学会、1992年7月、pp.76-81。
関連文献
[編集]- 西尾豊作『下田歌子伝』咬菜塾、1936年
- 平尾寿子『下田歌子回想録』山陽堂、1942年
- 志茂田景樹『花の嵐 明治の女帝・下田歌子の愛と野望』PHP研究所、1984年
- 林真理子『ミカドの淑女(おんな)』新潮社、1990年(のち文庫化)
- 南條範夫『妖傑下田歌子』講談社、1994年
- 『妖婦下田歌子 平民新聞より』風媒社、1999年
- 孫東芳「女学校の創設と明治国家 : 下田歌子と津田梅子の比較を中心として」『文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集』第7巻、関西大学大学院東アジア文化研究科、2017年11月、217-232頁、hdl:10112/11539、ISSN 2187-4395、CRID 1050282677888240256。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]その他の役職 | ||
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先代 (新設) |
順心高等女学校長 1924年 - 1936年 |
次代 田所美治 |
先代 (新設) |
実践高等女学校長 1932年 - 1936年 |
次代 中村俊秀 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
実践第二高等女学校長 1934年 - 1936年 実践実科高等女学校長 1932年 - 1934年 |
次代 土岐竜雲 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
実践女子専門学校長 1932年 - 1936年 |
次代 辻村鑑 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
財団法人帝国婦人協会実践女学校理事長 1935年 - 1936年 |
次代 平尾寿子 |
先代 (新設) |
淡海高等女学校長 1926年 - 1930年 |
次代 渡辺千治郎 |
先代 浜尾作子 |
愛国婦人会会長 1920年 - 1927年 |
次代 本野久子 |