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紫式部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紫式部
(むらさきしきぶ)
紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)
誕生 天禄元年(970年
- 天元元年(978年)?
生没年参照)
死没 長和3年(1014年
- 長元4年(1031年)?
生没年参照)
職業 作家歌人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
活動期間 990年代 - 1000年代
ジャンル 和歌物語日記文学
代表作
配偶者 藤原宣孝
子供 大弐三位
親族 藤原為時(父)
藤原為信女(母)
(同母姉)
藤原惟規(同母兄弟)
藤原惟通(異母兄弟)
定暹(異母弟)
藤原信経室(異母妹)
ウィキポータル 文学
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紫式部(むらさき しきぶ)は、平安時代中期の女房作家歌人。『源氏物語』の作者とされ、『紫式部日記』を残しており、歌人として『紫式部集』を残した。『後拾遺和歌集』などに入集し、『中古三十六歌仙』『女房三十六歌仙』『百人一首』に選ばれている。

紫式部 百人一首 57番「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
眠る紫式部(菊池容斎前賢故実江戸末期から明治初期の作)

伝記

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父は藤原北家良門流越後守藤原為時、母は摂津守藤原為信の娘(藤原為信女)である。父方の曽祖父には三条右大臣藤原定方や堤中納言・藤原兼輔があり、一族には文辞で聞こえた人が多い。父為時も漢詩人歌人として活動した。

紫式部の実名や正確な生没年はわかっていないが、おおよそ天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれたと考えられている(「生没年」参照)。同母の兄弟に藤原惟規がいるが、紫式部とどちらが年長かは両説が存在する[2]。ほかに、がいたこともわかっているが、この式部の母親は早世したとされている[3]

紫式部は幼少の頃より漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。970年代後半より父為時が東宮時代の花山天皇の読書役を務め、永観2年(984年)の天皇即位にともない蔵人式部大丞と出世したが、2年後に天皇が譲位・出家すると散位となったため、一家は不遇の時代を過した。10年後の長徳2年(996年)、為時がようやく越前国受領となり、紫式部も約2年を父の任国で過ごす。

長徳4年(998年)ごろ、親子ほども年の差がある又従兄妹[注釈 1]山城守藤原宣孝と結婚する。長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この娘も『百人一首』『女房三十六歌仙』の歌人として知られる。しかし、この結婚生活は長くは続かず、長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。『紫式部集』には、その心情を詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている[注釈 2]

長保4年(1002年)ごろ、『源氏物語』を書き始める[注釈 3]。のちに藤原道長に召し出され、寛弘2年12月29日1006年1月31日)、もしくは寛弘3年同日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮藤原彰子(道長の長女)に女房として仕える。女房名藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされる[5]。彰子の家庭教師としての役割も果たしたとされ、少なくとも寛弘8年(1012年)ごろまで奉仕したようである。この間、大量の料紙を提供されていることから、そこに『源氏物語』を書くことを依頼されたと考えるのが自然であり、その依頼主として可能性が高いのが藤原道長である[6]

なお、近代以降の伝記では顧みられることのなかった説として、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として紫式部が出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には、紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。傍証として、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たること、さらに『紫式部日記』には、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮がうかがえることが挙げられる。女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、のちに越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である[7]

17世紀江戸時代初期の作、紫式部を描いた金箔をはった扇子
二千円紙幣D券裏面に描かれている紫式部(右下)。
『石山月』(月岡芳年『月百姿』)『源氏物語』を執筆する紫式部
「古今姫鑑」紫式部 月岡芳年/画(明治9)1876年

名称

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平安時代貴族階級の女性は当時の慣習で実名()を公にしない場合が多く[8][9]、紫式部をはじめ清少納言和泉式部などの名称は通称であり、実名はいずれもわかっていない。

宮中での女房名「藤式部」は、父為時の官位(式部省の官僚・式部大丞)に由来する説と、同母兄弟・藤原惟規の官位に由来する説とがある[10]

現在一般的に使われている「紫式部」について、「」のような色名を冠した呼称は同時代には珍しく、その理由については様々な推測がされている。一般的には、「紫」の呼称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に由来すると考えられている[11]

源氏の物語』を女房に読ませて聞いた一条天皇が「きっと日本紀(『日本書紀』)をよく読み込んでいる人に違いない」と作者を褒めたことから、紫式部は「日本紀の御局」とあだ名されたとの逸話がある[12]。これには女性が漢文を読むことへの揶揄があり、紫式部本人にとっては苦痛だったとする説が通説である。

「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべるものなりけり」[13]

幼名について、『紫式部集』の宣孝と思しき人物の詠歌に「ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ」から、「もも」を幼名と解釈する研究者もいる[14]

また、について、『御堂関白記』の寛弘4年1月29日1007年2月19日)の条で掌侍になったとされる記事にある「藤原香子」(かおるこ/たかこ/こうし)とする角田文衛(1963年)説がある[15]。ただし、推論の過程に誤りが含まれるとの批判があり[16]、もし紫式部が「掌侍」という律令制に基づく公的な地位を有していたのなら、「紫内侍」や「式部内侍」として勅撰集や系譜類にあるはずの痕跡が全く見えないとする批判もある[17]。その後、萩谷朴の香子説追認論文[18]も提出されているが、以降は積極的な検討は停滞している。三枝和子『香子の恋 小説 紫式部』、帚木蓬生『香子 紫式部物語』全5巻のように、創作ではタイトルに香子が採用されている例もある。

生没年

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当時の受領階級の女性全般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため、紫式部の生没年については複数の説が存在しており、定説が無い状態であり、生没年は不詳である[19]

生年については両親が婚姻関係になったのが、父の為時が初めて国司となって播磨国へ赴く直前と考えられることから、それ以降であり、かつ同母の姉がいることから、そこからある程度経過した時期であろうと推測される。だが同母兄弟である藤原惟規とどちらが年長であるかも不明であり、以下のような様々な説が混在する[20]

没年については、昭和40年代までの通説では、紫式部と思われる「為時女なる女房」の記述が何度か現れる藤原実資の日記『小右記』において、長和2年5月25日1013年6月25日)の条で「藤原資平(実資の甥で養子)が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際、『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」旨の記述が、紫式部について残された明確な記録のうち最後のものであるとし、よって三条天皇の長和年間(1012年 - 1016年)に没したとする認識が有力なものであった。しかし、これについても異論が存在し、これ以後の明確な記録がないこともあって、以下のような様々な説が存在している[29]

  • 長和3年(1014年)2月の没とする岡一男の説[30]。西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじみやのとうしきぶ、おやのゐなかなりけるに、『いかに』などかきたりけるふみを、しきぶのきみなくなりて、そのむすめ見はべりて、ものおもひはべりけるころ、見てかきつけはべりける」とある詞書と和歌を、娘・賢子と交際のあった藤原頼宗の『頼宗集』の残欠が混入したものと推定している[31]
  • 長和5年(1016年)頃没とする与謝野晶子の説[32]。『小右記』長和5年4月29日1016年6月6日)条にある父・為時の出家を近しい身内(式部)の死と結びつける説による。
  • 寛仁元年(1017年)以後の没とする山中裕による説。『源氏物語』の主人公である光源氏が「太上天皇になずらふ」存在となったのは、紫式部が同年の敦明親王皇太子辞退と准太上天皇の待遇授与の事実を知っていたからとする[33]
  • 寛仁3年(1019年)内の没とする、萩谷朴[34]や今井源衛による説。『小右記』正月5日条で、実資と相対した「女房」を紫式部と認め[15]、かつ西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文を、娘・賢子の交友関係から『定頼集』の逸文と推定する。さらに森本元子は、この逸名歌集の編纂者を藤原道綱の娘豊子・美作三位とし、萩谷説に矛盾はないとした[35]
  • 治安元年(1021年)春を西本願寺本『平兼盛集』巻末逸名歌12首の詠作年次とし、疫病蔓延の前年(1020年)暮れまでに没したとする上原作和説[36]彰子後宮女房の歌稿集の編纂者を伊勢大輔とする。
  • 万寿2年(1025年)以後の没とする安藤為章による説。『栄花物語』「楚王の夢」の解釈を根拠として、娘の大弐三位が後の後冷泉天皇乳母となった時点で式部も生存していたと考える。
  • 小右記』に見える「女房」を紫式部とすれば、万寿、長元年間まで生存していたとする倉本一宏説[37]
  • 長元4年(1031年)没とする角田文衛による説。『続後撰集』に長元3年8月(1030年)に創建された東北院で詠まれた作品が確認出来ることなどを理由とする[38]。ただし、この詠歌は『紫式部集』からの再録であり、本来の詞書「土御門院」を、再録に際して「東北院」と改めたに過ぎない。

婚姻関係

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紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、『権記』の長徳3年(997年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている[39]

道長妾

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『紫式部日記』には、夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり、鎌倉時代公家系譜の集大成である『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』)には、「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」と註記が付いている。これは『紫式部日記』に「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」旨の記述が存在することを根拠としているとされる。これに対し、「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」(安藤為章『紫女七論』)とする江戸時代の儒教的倫理観による解釈もあった。ただし、『源氏物語』には、召人と呼ばれる女房の存在もある。

墓所

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紫式部の墓と伝えられる古蹟が京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されており、小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている(『河海抄』の記述に合致)。この場所は淳和天皇離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われ、後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。京都市の建札によれば、この場所から東北の地域はかつては小野氏の領地だったが、後に藤原氏の所有となった。[40]この地に紫式部古くは14世紀中頃の『源氏物語』注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』『山州名跡志』にも記されている。この情報が長い間にわたり、両家の墓所として保たれてきた理由を示している。1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備された。[41]この時、篤志家・近藤清一氏はこの計画に賛同、四国吉野川上流で産出した大きな花崗岩(高さ1950cm、幅120cm)を碑石として寄附した[42]京都市北区の観光名所の一つになっている。

作品

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歌人としては、子供時代から晩年のほぼ一生涯にわたり自らが詠んだ和歌から選び収めた家集紫式部集』があり、資料の少ない紫式部の生活環境の変化や心の変化を知ることができ、平安文学や日本古代中世史などの研究者にとって貴重な資料でもある[43]。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集には計51首の和歌が収められている[44]平安時代末期に中古三十六歌仙鎌倉時代中期に女房三十六歌仙に選ばれ、『百人一首』57番に収められた「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」が広く知られる。

物語作品では、平安中期の貴族社会を描き、54帖から成る『源氏物語』の作者とされる。和歌795首が詠み込まれ、物語の核心を文章ではなく和歌で描く描写力をはじめ[注釈 4]、日本や中国の歴史書、漢籍漢詩への造詣の深さに裏付けされた記述から高く評価される。

日記作品では、藤原道長の要請で宮中に上がった際、宮中の様子をはじめ藤原道長邸の様子などを記した『紫式部日記』を残しており、これには和歌18首が詠み込まれている。この日記は寛弘5年(1008年)7月から約1年半にわたる日記で、随所に宮中行事の様子も記され、宮中内の者しか知り得ない現場の様子もよくわかり、行事の開催など事実だけを記載する公的歴史記録では知ることができないものである[46]。また紫式部が女性仲間と物語に関して批評し合い楽しんでいた様子なども書かれており[47]、源氏物語執筆のきっかけを知ることができる第一級の資料でもある[48]。源氏物語と紫式部日記の2作品は、150年ほど後の平安時代末期に『源氏物語絵巻』、200年ほど後の鎌倉時代初期に『紫式部日記絵巻』として、各々絵画化された。

その他

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紫式部歌碑
「めぐりあひて 見しや
それとも わかぬ間に
雲がくれにし
夜半の月影(百人一首 57番)」
    京都市上京区廬山寺内[49]    
紫式部邸址(廬山寺「源氏庭」)

交友関係と人物評

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明確な記録は存在しないが、村上天皇の皇子である具平親王光源氏のモデルのひとりともされ、為時や紫式部、その兄の為頼と交流があった可能性がある。具平親王の母荘子女王と為頼・為時兄弟の母は従姉妹の関係であり、為時は「藩邸之旧僕」と題し詩に読み、古くからの親しい交流があったことを示している。また『紫式部日記』には、道長が具平親王の息女隆姫女王を嫡男頼通へ降嫁させるための相談を、式部を具平親王家からの「心よせのある人」として持ちかけていることなどから、紫式部自身も具平親王と知古があったとする説である。[50]

詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は、宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によれば、この役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。

『紫式部日記』には、同僚女房たちの批評に同時期の有名女房たちの人物評が続く。歌人の和泉式部(「趣深い手紙のやり取りをした人だが素行はよくない。歌は口に任せて読んだ中に光るものがある作風であるが、他人の歌の批評などしているのを見ると歌学に造詣が深いわけでもなく、こちらが気後れするような歌人ではない」など)や赤染衛門(「家柄が良いというわけではないが歌はとても風格があり、むやみに読み散らしたりしないが世に知られている歌はどれも素晴らしくこちらが恥じ入ってしまうほどである」など)が知られている。とりわけ、最も有名なのが『枕草子』作者の清少納言に対する下りである(以下は意訳)。

  • 「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
  • 「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか(いや、ない)」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)

殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの記述は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味(紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など)を持って語られている。本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったとされることが多いが、面識の有無を証する文献はない。定子没後の清少納言の動静については、夫の藤原棟世と摂津に赴いたことが『清少納言集』から知られるが、同時に一条天皇からの使いが来たことも記されている。角田文衛は、定子の遺児・媄子内親王脩子内親王を養育するために再出仕し、そこで紫式部らとの接触があったと推定しているが根拠はない[51]。この清少納言評に関しては、『紫式部日記』の政治的性格を重視する視点から、清少納言の『枕草子』が故皇后・定子を追懐し、紫式部の主人である中宮・彰子の存在感を阻んでいることに苛立ったためとする解釈もある[52]

なお紫式部の娘の大弐三位の子の高階為家と、清少納言の娘の上東門院小馬命婦の娘と関係があったことを示す歌が『後拾遺和歌集』908番に残されている。

為家朝臣、物言ひける女にかれがれに成りて後、みあれの日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦 その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき — 『後拾遺集』908番

その他

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貴族では珍しくイワシが好物であったという説話があるが、元は『猿源氏草紙』での和泉式部の話であり、後世の作話と思われる。

現在、日本銀行券D号券2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部を使用している。

紫式部像

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紫式部学会

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紫式部学会とは昭和7年(1932年6月4日東京帝国大学文学部国文学科主任教授であった藤村作(会長)、東京帝国大学文学部国文学科教授であった久松潜一(副会長)、東京帝国大学文学部国文学研究室副手であった池田亀鑑(理事長)らによって、『源氏物語』に代表される古典文学の啓蒙を目的として設立された学会である。昭和39年(1964年)1月より事務局が神奈川県横浜市鶴見区にある鶴見大学文学部日本文学科研究室に置かれていた。現在は武蔵野書院、会長は藤原克巳が務めている。

講演会を実施したり『源氏物語』を題材にした演劇の上演を後援したりしているほか、以下の出版物を刊行している。

  • 機関誌『むらさき』戦前(昭和9年(1934年)8月〜昭和19年(1944年)6月)は月刊、戦後版(昭和37年(1962年)〜)は年刊
  • 論文集『研究と資料 古代文学論叢』昭和44年(1969年)6月〜20輯 武蔵野書院刊

関連作品

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小説
映画
テレビドラマ
漫画
バラエティ
音楽
CM

脚注

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注釈

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  1. ^ 紫式部の父方の祖母と、宣孝の父方の祖父・藤原朝頼がともに藤原定方の子である。
  2. ^ 意味は「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」。「塩釜」は海藻を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の宮城県塩竈市
  3. ^ 『紫式部日記』より。日本文学研究者の三田村雅子によれば、当初、仲間内で意見を言い合ったり手紙のやり取りで批評し合ったりして楽しんでいたことから「最初は現代の同人誌のような楽しみ方だった」という[4]
  4. ^ 一例として、光源氏が紫の上と初めて契りを結ぶ場面(「」帖)には、詳細な経緯は描かれず、朝、枕元に置かれた和歌『あやなくも隔てけるかな夜を重ね さすがに馴れし夜の衣を』(なぜこれまで夜の衣を隔てて契りを結ばなかったのか、ずっと夜を共にしてきたのに)が、読者にその夜の出来事を知らせている[45]

出典

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  1. ^ 紫式部」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8コトバンクより2020年7月9日閲覧 
  2. ^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 二 惟規との前後関係」(阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月)p.338
  3. ^ 倉本 2023, p. 20.
  4. ^ 三田村雅子『紫式部 源氏物語』(NHK出版〈「100分de名著」ブックス〉、2015年12月25日発行)
  5. ^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 九 式部と呼ばれた理由」(阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月)p.348。
  6. ^ 倉本 2023, p. 138.
  7. ^ 徳満澄雄「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」(『語文研究』第62号、1986年)pp.1-12
  8. ^ 荻生待也編著『日本人名関連用語大辞典』(遊子館、2008年7月1日)p,100
  9. ^ 大藤修『日本人の姓・名字・名前 ―人名に刻まれた歴史― 』(吉川弘文館、2012年9月1日)pp.81-91
  10. ^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 九 式部と呼ばれた理由」阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月)p.348。
  11. ^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 10 藤式部が紫式部と呼ばれた理由」阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』(明治書院、1970年8月)pp.348-350。
  12. ^ NHK出版「100分de名著」ブックス『源氏物語』P29、三田村雅子。
  13. ^ 紫式部日記
  14. ^ 上原作和「紫式部伝4-生い立ちI-幼名「もも」説の提唱」上原作和・編集『人物で読む源氏物語』「藤壺の宮」巻(勉誠出版2005年5月)pp.317-319 ISBN 978-4-585-01144-6
  15. ^ a b 角田文衞「紫式部の本名」『紫式部とその時代』(角川書店、1966年)。発表後にあった批判に対する反論と誤謬の訂正を加え、『紫式部伝 ―その生涯と『源氏物語』―』(法蔵館、2007年)に角田説は集大成されている。
  16. ^ 今井源衛「紫式部本名香子説を疑う」(『国語国文』34巻1号、1965年) のち『王朝文学の研究』(角川書店、1976年)および『今井源衛著作集 3 紫式部の生涯』に収録。
  17. ^ 岡一男「紫式部の本名 藤原香子説の根本的否定」(『増訂 源氏物語の基礎的研究 -紫式部の生涯と作品-』東京堂出版、1966年8月)pp.598-613。
  18. ^ 萩谷朴「解説・作者について」『紫式部日記全注釈』下巻(角川書店、1973年8月)pp.467-508 ISBN 978-4047610217
  19. ^ 倉本 2023, p. 317.
  20. ^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 出生年次」(阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月)pp.336-338。
  21. ^ 今井源衛「紫式部の出生年度」(『文学研究』第63輯、1966年3月)。のち『王朝文学の研究』(角川書店、1970年)及び『今井源衛著作集 3 紫式部の生涯』(笠間書院、2003年7月30日)pp. 181-205。ISBN 4-305-60082-X
  22. ^ 稲賀敬二「天禄元年ころの誕生か」『日本の作家12 源氏の作者 紫式部』(新典社、1982年11月)pp. 13-14。ISBN 978-4787970121
  23. ^ 小谷野純一「解説」『紫式部日記』笠間書院、2007年4月、pp. 197-227 ISBN 978-4-305-70420-7
  24. ^ 岡一男「紫式部の生涯」『源氏物語講座 第二巻作者と時代』(有精堂、1971年12月)pp. 1-58
  25. ^ 角田 2007, p. 600.
  26. ^ 萩谷朴「解説・作者について」『紫式部日記全注釈』下巻、角川書店、1973年8月、pp. 467-508 ISBN ISBN 978-4047610217
  27. ^ 南波浩『紫式部全評釈』笠間書院、1983年
  28. ^ 島津久基『日本文学者評伝全書 紫式部』青梧堂、1943年。
  29. ^ 堀内秀晃「紫式部諸説一覧 紫式部の没年」(阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月)pp. 352-354。
  30. ^ 岡一男「紫式部の晩年の生活附説 紫式部の没年について 『平兼盛集』を新資料として」『増訂 源氏物語の基礎的研究 紫式部の生涯と作品』(東京堂出版、1966年)pp. 143-170。
  31. ^ 岡一男「紫式部の晩年の生活附説 紫式部の没年について 『平兼盛集』を新資料として」(『増訂 源氏物語の基礎的研究 紫式部の生涯と作品』東京堂出版1966年)pp. 143-170。
  32. ^ 与謝野晶子「紫式部新考」(『太陽』昭和3年2月号)。のち『日本文学研究資料叢書 源氏物語 1』( 有精堂、1969年10月)pp. 1-16。ISBN 4-640-30017-4
  33. ^ 山中裕「紫式部の生涯と後宮」(書き下ろし)『源氏物語の史的研究』(思文閣出版1997年6月1日ISBN 978-4-7842-0941-5
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  52. ^ 山本淳子「『紫式部日記』清少納言批評の背景」(『古代文化』2001年9月号)。
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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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