源等
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源等 | |
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 元慶4年(880年) |
死没 | 天暦5年3月10日(951年4月18日) |
別名 | 参議等 |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏弘流 |
父母 | 父:源希、母:不詳 |
兄弟 | 号、等 |
妻 | 不詳 |
子 | 斉、済、学、愸、藤原敦忠室、藤原令茂室 |
源 等(みなもと の ひとし)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、中納言・源希の次男。官位は正四位下・参議。小倉百人一首では参議等。
経歴
[編集]寛平9年(897年)醍醐天皇が践祚すると、等は六位蔵人に任ぜられる。近江権少掾・主殿助の兼帯を経て、延喜4年(904年)従五位下に叙爵し、翌延喜5年(905年)大蔵少輔に任ぜられる。延喜7年(907年)三河守に遷ると、丹波守・美濃権守・備前守と地方官を歴任し、この間に治国の功労により延喜12年(912年)従五位上、延喜23年(923年)正五位下に昇叙され、同年10月には左中弁に補任されている。醍醐朝末の延長8年(930年)従四位下に昇叙された。
朱雀朝では、大宰大弐・弾正大弼・山城守・勘解由長官を歴任し、天慶6年(943年)従四位上、天慶8年(945年)右大弁に叙任される。
村上朝初頭の天暦元年(947年)参議に任ぜられ公卿に列す。天暦5年(951年)正月に正四位下に昇叙されるが、同時に議政官として兼帯していた右大弁・勘解由長官・讃岐守の官職を全て辞任し、同年3月10日に薨去。享年72。最終官位は参議正四位下。
人物
[編集]勅撰歌人として『後撰和歌集』に4首が採録されている。そのうち「東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人ぞなき」(恋二 619)は、本阿弥光悦作『舟橋蒔絵硯箱』の蓋の意匠に取り入れられたことで知られる[1]。
- 『小倉百人一首』
- 39番 浅茅生(あさじふ)の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき(『後撰和歌集』恋一 577)[2]
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 寛平9年(897年) 7月17日:六位蔵人?[3]
- 昌泰2年(899年) 正月11日:兼近江権少掾
- 昌泰4年(901年) 3月15日:兼主殿助(宇多院御給)
- 延喜4年(904年) 2月27日:従五位下(朱雀院臨時御給一人叙)
- 延喜5年(905年) 4月5日:大蔵少輔
- 延喜7年(907年) 正月13日:三河守
- 延喜12年(912年) 正月7日:従五位上(治国)。正月15日:丹波守。
- 延喜16年(916年) 日付不詳:内匠頭
- 延喜17年(917年) 正月29日:美濃権守(受領)
- 延喜22年(922年) 10月25日:大蔵大輔
- 延喜23年(923年) 正月12日:備前権介[4](受領)。2月28日:正五位下(治国)。10月:左中弁
- 延長7年(929年) 9月:主殿頭
- 延長8年(930年) 正月27日[5]:従四位下(治国)、大宰大弐
- 承平7年(937年) 3月8日:弾正大弼
- 天慶2年(939年) 12月27日:山城守
- 天慶3年(940年) 12月6日[6]:兼勘解由長官
- 天慶6年(943年) 正月7日:従四位上
- 天慶8年(945年) 11月25日:右大弁
- 天慶9年(946年) 2月7日:兼勘解由長官。4月25日:昇殿
- 天暦元年(947年) 4月26日:参議、大弁長官如元
- 天暦2年(948年) 正月30日:兼讃岐守
- 天暦5年(951年) 正月7日:正四位下、上表辞大弁勘長官等。3月10日:卒去(参議正四位下)