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二条院讃岐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二条院讃岐 - 土佐光貞画 芝山持豊筆 文化五年版百人一首

二条院讃岐(にじょういんのさぬき、生没年不詳:永治元年(1141年)頃 - 建保5年(1217年)以降)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人である。女房三十六歌仙の一人。父は源頼政、母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。内讃岐中宮讃岐とも称される。

経歴

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保元3年(1158年)の二条天皇即位と同じ頃に内裏女房として出仕したと見られる。父頼政は、二条天皇を養育した鳥羽法皇美福門院に近侍していた。永万元年(1165年)の二条院崩御後は、勧修寺流の実務官僚・藤原重頼と結婚、重光・有頼らの母となった[注釈 1]。重頼は父頼政や兄仲綱等と同じく、二条天皇や高倉天皇後白河院等に近侍し、頼政等との直接の交流も深かった[3]

平治元年(1159年)以降、二条天皇の内裏和歌会(「内の御会」)にたびたび出席し、内裏歌壇での評価を得た。また、父頼政や兄仲綱と並び、俊恵の歌会グループ歌林苑にも参加した。俊恵の弟子鴨長明の 『無名抄』(1211年頃成立)によれば、俊恵は讃岐の「一夜とて夜離れし床の小筵に やがても塵の積りぬる哉」という歌を、恋歌の「おもて歌」(代表歌)と評価し、自らの編んだ私撰集『歌苑抄』に収めたという(代々恋歌秀歌事)。承安2年(1172年)頃成立した、同時代の有名な歌人20人を論じる『歌仙落書』では、「風體艶なるを先として、いとほしきさまなり。女のうたかくこそあらめと、あはれにも侍るかな」と高く評価された[1]

治承4年(1180年)、宇治平等院での戦いにおける父兄弟の戦死を経て、寿永元年(1182年)には自撰集『二条院讃岐集』を賀茂社へ奉納し、賀茂重保の勧進する賀茂社奉納百首の歌人となる。治承・寿永の乱後、文治4年(1188年)成立の『千載集』において、勅撰集に初めて入集する[1]

建久元年(1190年)頃には、後鳥羽天皇中宮九条任子(宜秋門院)の女房となったと見られる[1]。建久5年(1194年)の中宮和歌会に、同じく任子に仕える宜秋門院丹後とともに出詠したことが、任子の父・兼実の日記『玉葉』から知られ(8月11日条「女房二人〈讃岐(頼政女)、丹後(頼行女)〉」)、翌6年には「民部卿家歌合」に「中宮讃岐」の名で出詠した[注釈 2]。『尊卑分脈』によれば、讃岐の二男・有頼は後に「宜秋門院判官代」を務め、一男・重光の子も順徳天皇皇后九条立子(東一条院)の女房となった[2]

後鳥羽院が譲位の頃より和歌に熱中し、歌壇が隆盛を見せる中で、讃岐も実力のある女性歌人の一人として注目され、正治2年(1200年)の『正治初度百首』の歌人23人の一人に選ばれて、歌壇への本格復帰を果たした。この頃には「むそぢ」(60歳)に近づき(『正治初度百首』詠歌)、既に出家していた(『源家長日記』)。森本元子は、九条家が失脚した建久七年の政変1196年)の直後に出家したと推測している[1]建保4年(1216年)の『内裏歌合』まで歌人としての活動が確認できる。

所領に関して、承元元年(1207年)に、伊勢国小幡村(現三重県四日市市大治田)をめぐり鎌倉に出訴の旅に出ていることから、同地領家であったことが知られる(『吾妻鏡』 承元元年11月17日条、『玉葉和歌集』2076・2077番)[2]。これらの史料によれば、以前より伊勢平氏・富田基度の押領を受けていたところ、建仁3年(1203年)末からの三日平氏の乱により富田が追討されたことに伴い、没収地に地頭が新補されることとなった。これに対し、二条院讃岐が領家として訴えを起こし、問注所執事三善善信の奉行により、地頭職の設置が停止された。

晩年の文暦2年(1235年)には、父頼政から夫重頼が継いだとも推測される若狭国宮川保(現小浜市)の地頭職を、「讃岐尼」として領知していたことが知られる[5]

逸話・伝承

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二条院崩御の翌年(仁安元年(1166年)、『後白河院当座歌合』の場での、内裏歌合のベテランらしい讃岐の立居振舞が伝えられている。

金吾の口伝のうちに 女房の故実に 兼日の懐紙なき時は 後白河院の仁安御歌合当座にて侍りけるに 讃岐参たりけるに 扇をさし出して題をたまはりけるとかや。まことにある中にきはもたちて いみじく見えたりけるとなん申侍り

— 藤原定家 『愚秘抄』

沖の石の讃岐

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『百人一首』に取られた「わか袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかはくまもなし」の歌より、「沖の石の讃岐」と呼ばれる。

若狭国宮川保との縁から、福井県小浜市矢代湾の岩礁をこの「沖の石」の由来とする見解がある[6]。また、宮城県多賀城市八幡の沖の石を関連させる見解もある[7]

「沖の石」は後代、「人に知られないこと」「いつも濡れていること」、また女性器の隠語として、俳諧等で用いられる語となった。

遊女伝説

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父頼政の死後、遊女となったという俗説があり[8]、これを題材として杉本苑子の小説『二条院ノ讃岐』が書かれた(中央公論社、1982年)。

作品

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千載和歌集』以降の勅撰集、『続詞花集』・『今撰集』等の私撰集、家集『二条院讃岐集』等に作品を残している。

勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
千載和歌集 二条院讃岐
讃岐
 3
 1
新古今和歌集 二条院讃岐 16 新勅撰和歌集 二条院讃岐 13
続後撰和歌集 二条院讃岐  3 続古今和歌集 二条院讃岐  6 続拾遺和歌集 二条院讃岐  2
新後撰和歌集 二条院讃岐  3 玉葉和歌集 二条院讃岐  8 続千載和歌集 二条院讃岐  4
続後拾遺和歌集 二条院讃岐  3 風雅和歌集 新千載和歌集 二条院讃岐  1
新拾遺和歌集 二条院讃岐  3 新後拾遺和歌集 二条院讃岐  1 新続古今和歌集 二条院讃岐
二条院さぬき
 3
 1
定数歌歌合
名称 時期 作者名表記 備考
別雷社歌合 1178年(治承2年) 二条院讃岐 父と共に出詠
民部卿家歌合 1195年(建久6年)3月3日 中宮讃岐
正治初度百首 1200年(正治2年) 讃岐 二条院女房
新宮撰歌合 1201年(建仁元年)3月 讃岐 二条院官女頼政女 勝1
和歌所影供歌合 1201年(建仁元年)8月3日 女房讃岐 藤原俊成と番い負5無判1
八月十五夜撰歌合 1201年(建仁元年) 讃岐 負4
千五百番歌合 1202年(建仁2年) 讃岐
内裏百番歌合 1216年(建保4年)閏6月9日 二条院讃岐 久我通光と番い負9持1
私撰集
  • 三百六十番歌合(1200年(正治2年))
    • 「讃岐 宜秋門院女房」名で12首
私家集
  • 『二条院讃岐集』(真観本)(鎌倉時代中期写本 冷泉家時雨亭文庫 重要文化財

百人一首

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  • 92番

  寄石恋といへる心を                 二条院讃岐
わか袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそしらねかはくまもなし

— 『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二(759)

脚注

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注釈

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  1. ^ 尊卑分脈』には源重光と有頼の母について「従三位頼政女二条院讃岐」と記されている。また、『丹波氷上郡佐治庄地頭足立氏系図』には、足立遠光(足立遠政父)の生母として「母源三位女二条院讃岐守女」が見える[1][2]
  2. ^ 『玉葉』にはそのほかにも「讃岐」が複数回登場する。[1]等はこれらを二条院讃岐とは別人とする。これに対し伊佐迪子は[4]以降の論考において、これらの「讃岐」やそれ以外の「女房」の多くを二条院讃岐に比定し、二条院讃岐が兼実の妻であったという独自の説を提唱したが、主観的な論述に終始していることから、研究者の通説とはなっていない。

出典

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  1. ^ a b c d e f 森本元子 1984.
  2. ^ a b c 彦由三枝子 2020.
  3. ^ 中村文 2016.
  4. ^ 伊佐迪子 2005.
  5. ^ 文暦2年(1235年)6月14日「若狭宮河保山預注進案」(若狭秦金蔵氏文書、鎌倉遺文4769、古文書ユニオンカタログ
  6. ^ 「沖の石」(福井県小浜市)『角川日本地名大辞典 福井県』角川書店、1989年。
  7. ^ 「沖の石」(宮城県多賀城市)『角川日本地名大辞典 宮城県』角川書店、1979年。
  8. ^ 「宮川」(福井県小浜市)『角川日本地名大辞典 福井県』角川書店、1989年。

参考文献

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  • 森本元子『二条院讃岐とその周辺』和泉書院〈笠間叢書〉、1984年。ISBN 978-4305101822 
  • 小田剛『二条院讃岐全歌注釈』和泉書院、2007年。ISBN 978-4757604315 
  • 伊佐迪子「『玉葉』に見える『二条院讃岐』像」『花園大学国文学論究』第33号、2005年。 
  • 中村文「藤原重頼をめぐって」『埼玉学園大学紀要 人間学部篇』第16号、2016年、232(17)-223(26)。 
  • 彦由三枝子「二条院讃岐の鎌倉下向の史的背景(1)『吾妻鏡』承元元年一一月一七日条の検討」『政治経済史学』第642号、2020年、14-53頁。