源希
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時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 嘉祥2年(849年) |
死没 | 延喜2年正月19日(902年3月1日) |
官位 | 従三位、中納言 |
主君 | 陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏 |
父母 | 父:源弘 |
兄弟 | 同、撰、雙、弼、道、希、悦、愗、就、昭、近 |
妻 | 不詳 |
子 | 号、等 |
源 希(みなもと の まれ/のぞむ/ねがう)は、平安時代前期の公卿。嵯峨源氏、大納言・源弘の六男。官位は従三位・中納言。
経歴
[編集]元慶8年(884年)光孝天皇の即位に伴って従五位下に叙爵し、内蔵助に任官する。仁和元年(885年)民部少輔ついで右衛門権佐を経て、仁和2年(886年)右少弁となる。宇多朝初頭の仁和4年(888年)従五位上に叙せられる。
宇多朝では弁官を務めながら、寛平3年(891年)右近衛少将(兼左少弁)と近衛次将も兼帯する。さらには、侍従に五位蔵人も兼ね天皇にも近侍した。寛平4年(892年)正五位上・右近衛権中将、寛平5年(893年)従四位下・蔵人頭兼右大弁、寛平6年(894年)左近衛中将と文武の要職を務めながら昇進し、寛平7年(895年)参議に任ぜられ公卿に列した。
寛平9年(897年)醍醐天皇の即位に前後して、従四位上・左大弁に叙任される。昌泰2年(899年)には上位の参議6名(藤原有実・源直・源貞恒・十世王・藤原有穂・源湛)を超えて従三位・中納言に叙任された。
延喜2年(902年)正月19日薨去。享年54[1]。最終官位は中納言従三位。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 元慶8年(884年) 2月23日:従五位下。3月9日:内蔵助
- 仁和元年(885年) 正月16日:民部少輔。2月20日:右衛門権佐
- 仁和2年(886年) 正月16日:右少弁。4月5日:兼斎院長官
- 仁和3年(887年) 2月2日:兼近江権守
- 仁和4年(888年) 11月25日:従五位上
- 寛平2年(890年) 日付不詳:兼侍従。閏9月20日:兼大蔵大輔
- 寛平3年(891年) 3月9日:兼右近衛少将、止大蔵大輔?[2]。4月:五位蔵人[2]。4月7日:禁色(蔵人)。4月11日:兼左少弁、少将如元[2]
- 寛平4年(892年) 正月7日:正五位上。正月23日:兼右近衛権中将
- 寛平5年(893年) 正月11日:兼伊予守。正月21日:従四位下。2月16日:兼権左中弁。2月22日:右大弁、蔵人頭。3月19日:兼修理大夫。閏5月1日:兼右兵衛督、止大夫[2]
- 寛平6年(894年) 正月16日:兼左近衛中将、止督?[2]。12月15日:兼侍従
- 寛平7年(895年) 正月11日:兼播磨守。10月26日:参議、右大弁左中将播磨守侍従等如元
- 寛平9年(897年) 5月25日:左大弁。6月19日:止中将[2]。7月13日:従四位上
- 昌泰2年(899年) 2月14日:中納言、従三位、侍従如元(超六人)。3月7日:兼民部卿
- 昌泰3年(900年) 3月23日:止民部卿
- 延喜2年(902年) 正月19日:薨去(中納言従三位)