コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

源貞恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源貞恒
時代 平安時代前期
生誕 天安元年(857年
死没 延喜8年8月1日908年8月30日
改名 貞恒王→源貞恒
別名 貞経
官位 正三位大納言
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族 光孝源氏
父母 父:光孝天皇
兄弟 元長兼善、名実、篤行、最善、近善、音恒、是恒旧鑑、遅子、麗子、竒子、忠子内親王、貞恒、成蔭、是忠親王是貞親王、国紀、宇多天皇、香泉、友貞、簡子内親王、崇子、連子、綏子内親王、礼子、最子、偕子、黙子、是子、並子、深子、為子内親王、周子、密子、繁子内親王穆子内親王、緩子、和子、謙子、袟子、快子、善子など多数
養兄弟:是茂
仲宣(仲信)
テンプレートを表示

源 貞恒(みなもと の さだつね)は、平安時代前期の賜姓皇族公卿光孝天皇の第十皇子。官位正三位大納言

経歴

[編集]

貞観12年(870年)同じ時康親王の子息である兄の元長王兼善王らと共に合わせて14名が源朝臣姓を与えられて臣籍降下する。貞恒は仁明天皇の孫であったが、二世王としての蔭位は受けられず陽成朝末の元慶7年(877年従五位下叙爵する。しかし、翌元慶8年(884年)2月に父・時康親王が即位(光孝天皇)したことに伴い、同年5月に天皇の子女である源近善源是忠源忠子と共に一世王として昇叙を受け、貞恒は五階昇進して従四位上に叙せられた。翌元慶9年(885年美濃守に任官する。

宇多朝に入ると、寛平2年(890年右近衛中将、寛平3年(891年左兵衛督と武官を歴任し、寛平5年(893年参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として、左兵衛督・大蔵卿右衛門督検非違使別当等を兼帯する。

醍醐朝において、昌泰3年(900年従三位延喜2年(902年中納言、延喜6年(906年)正三位と順調に昇進し、延喜8年(908年)正月には大納言に至るが、同年8月1日薨去。享年52。最終官位は大納言正三位兼行民部卿

官歴

[編集]

元慶年間までは『日本三代実録』、寛平年間以降は『公卿補任』による。

系譜

[編集]

尊卑分脈』による。

  • 父:光孝天皇
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:源仲宣

参考文献

[編集]