源是恒
表示
時代 | 平安時代前期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 延喜7年7月28日(907年9月8日) |
改名 | 是恒王→源是恒→空性→源是恒 |
官位 | 従四位上、美濃権守 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 光孝源氏 |
父母 | 父:光孝天皇 |
兄弟 |
元長、兼善、名実、篤行、最善、近善、音恒、是恒、旧鑑、遅子、麗子、竒子、忠子内親王、貞恒、成蔭、是忠親王、是貞親王、国紀、宇多天皇、香泉、友貞、簡子内親王、崇子、連子、綏子内親王、礼子、最子、偕子、黙子、是子、並子、深子、為子内親王、周子、密子、繁子内親王、穆子内親王、緩子、和子、謙子、袟子、快子、善子など多数 養兄弟:是茂 |
妻 | 不詳 |
子 | 養子:衆望 |
源 是恒(みなもと の これつね)は、平安時代前期の賜姓皇族・貴族。光孝天皇の第八皇子。官位は従四位上・美濃権守。
経歴
[編集]当初是恒王を名乗るが、貞観12年(870年)父の時康親王の上表により、兄弟姉妹と共に源朝臣の姓を賜与され臣籍降下。その後、出家して空性と号する。元慶8年(884年)時康親王が即位(光孝天皇)すると、出家の身であったが他の兄弟と共に時服月俸に預かっている。
その後、還俗して寛平8年(896年)11月に再び源朝臣姓を与えられ、官位は従四位上・美濃権守に至る。
官歴など
[編集]注記のないものは『日本三代実録』による。
- 貞観12年(870年) 2月14日:臣籍降下(源朝臣)
- 時期不詳:出家(法名・空性)
- 元慶8年(884年) 6月2日:時服月俸給
- 寛平8年(896年) 11月:還俗[要出典]
- 時期不詳:従四位上。美濃権守[1]
- 延喜7年(907年) 7月28日:卒去[2]