源昇
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時代 | 平安時代初期-中期 |
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生誕 | 嘉祥元年(848年) |
死没 | 延喜18年6月29日(918年8月8日) |
別名 | 河原大納言 |
官位 | 正三位、大納言 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 |
氏族 | 嵯峨源氏融流 |
父母 | 父:源融 |
兄弟 | 湛、泊、昇、望、副 |
妻 | 藤原門宗の娘 |
子 | 是茂、適、仕、後、衆望、藤原時平室、貞子、醍醐天皇更衣、目宮王室?[1] |
源 昇(みなもと の のぼる)は、平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、左大臣・源融の次男。官位は正三位・大納言。河原大納言と号す。
経歴
[編集]清和朝の貞観17年(875年)従五位下に叙爵し、陽成朝の元慶3年(879年)従五位上に叙せられる。土佐権守を経て、光孝朝初頭の元慶8年(884年)右馬助に任ぜられると、元慶9年(885年)左兵衛佐、仁和2年(886年)左衛門権佐と、光孝朝から宇多朝初頭にかけて武官を歴任し、仁和4年(888年)正五位下に昇叙された。
寛平3年(891年)右中弁に遷ると、寛平5年(893年)従四位下・蔵人頭兼左中弁に叙任されるなど、宇多朝では要職を務め、寛平7年(895年)参議に任ぜられ公卿に列した。なお、参議任官後も左中弁を兼帯した数少ない例となっている。
議政官の傍らで、左中弁・侍従・勘解由長官などを兼帯し、醍醐朝の寛平9年(897年)従四位上、延喜4年(904年)正四位下と昇叙された。
その後も、延喜8年(908年)従三位・中納言、延喜14年(914年)大納言と昇進を重ね、延喜16年(916年)正三位に至る。延喜18年(918年)6月29日薨去。享年71。最終官位は大納言正三位兼民部卿。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 貞観17年(875年) 正月7日:従五位下
- 元慶3年(879年) 11月25日:従五位上
- 元慶5年(881年) 11月15日:土佐権守
- 元慶8年(884年) 5月29日:右馬助
- 元慶9年(885年) 2月20日:左兵衛佐
- 仁和2年(886年) 2月21日:左衛門権佐
- 仁和4年(888年) 2月10日:近江介。11月25日:正五位下
- 寛平2年(890年) 日付不詳:兼侍従
- 寛平3年(891年) 4月11日:右中弁
- 寛平4年(892年) 正月23日:兼美濃権守
- 寛平5年(893年) 正月21日:従四位下。2月16日:兼木工頭。2月22日:蔵人頭、左中弁(木工頭権守等如元)
- 寛平6年(894年) 8月:兼遣唐装束使。12月25日:兼侍従
- 寛平7年(895年)10月26日:参議、左中弁侍従等如元
- 寛平8年(896年) 2月16日:止左中弁。3月15日:兼勘解由長官
- 寛平9年(897年) 正月13日:兼伊予権守。6月19日:兼右兵衛督。7月13日:従四位上。9月:止督
- 延喜3年(903年) 正月11日:兼讃岐守
- 延喜4年(904年) 正月7日:正四位下
- 延喜8年(908年) 2月23日:従三位、中納言
- 延喜9年(909年) 4月22日:民部卿
- 延喜14年(914年) 8月25日:大納言
- 延喜16年(916年) 3月8日:正三位(法皇御賀院別當)
- 延喜18年(918年) 6月29日:薨去(大納言正三位兼民部卿)
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ “『続群書類従』信州滋野氏三家系図”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2022年3月14日閲覧。
- ^ 『尊卑分脈』。『公卿補任』では源湛の娘とする。
- ^ “『続群書類従』信州滋野氏三家系図”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2022年3月14日閲覧。