藤村作
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ふじむら つくる 藤村 作 | |
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生誕 |
1875年5月6日 福岡県柳川市 |
死没 |
1953年12月1日(78歳没) 東京都 |
墓地 | 多磨霊園 |
国籍 | 日本 |
職業 | 国文学者 |
子供 |
次男:赤城さかえ 長女:近藤宮子 義息:近藤忠義 |
藤村 作(ふじむら つくる、1875年(明治8年)5月6日 - 1953年(昭和28年)12月1日)は、福岡県柳川出身の国文学者、東京帝国大学名誉教授。
来歴
[編集]橘蔭学館(のちの福岡県立伝習館高等学校)、第五高等学校を経て、1901年に東京帝国大学文科大学国文学科卒業[1]。
第七高等学校造士館教授、1903年広島高等師範学校教授、1910年東京帝大国文科助教授[1]、1922年教授[1]。
1934年東洋大学学長を兼任し、1936年東大を定年[1]。1940年より北京大学(汪兆銘政権下)で教える[2]。1924年雑誌『国語と国文学』を創刊[1]。
戦後、1934年に国語教育学会を創立[1]、1936年に日本文学協会を創立し[1]初代会長[3]。
関東女子専門学校(現・関東学園大学)名誉学長、二松学舎大学教授、大正大学教授[4]。
専門は日本近世文学 。東京大学で初めて近世文学を講じ[3]、江戸趣味として好事家しか取り上げなかった近世文学を学問研究の対象に押し上げた[1]。
著書
[編集]- 『上方文学と江戸文学』 至文堂(1922年)
- 『国文学史総説』 中興館, 1926, のち角川文庫
- 『近世国文学序説』雄山閣(1927年)
- 『本居宣長』 楽浪書院, 1936
- 『日本文学と日本精神』 新更会刊行部, 1936
- 『日本文学原論』 同文書院, 1937(実は近藤忠義の著)
- 『日本文学と女性』 社会教育協会, 1937
- 『常道を行くもの』 むらさき出版部, 1939
- 『国語問題と英語科問題』 白水社, 1940 (オンライン版)
- 『ある国文学者の生涯 八恩記』角川新書, 1956
校註など
[編集]- 『日本文学大辞典』四巻(編纂)新潮社(1932年 - 1935年)
- 『訳注西鶴全集』(1947年 - 1953年)
記念論集
[編集]- 近世文学の研究 藤村博士功績記念会 至文堂 1936
- 国文学の新研究 藤村博士帰還記念論文集 中部国文学会編 愛知書院 1950
作詞
[編集]- 第二東京市立中学校(現東京都立上野高等学校)校歌
- 長野県立伊那中学校(現長野県伊那北高等学校)校歌
- 秋田県立能代中学校(現秋田県立能代高等学校)校歌