隆姫女王
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隆姫女王(たかひめじょおう、長徳元年(995年) - 寛治元年11月22日(1087年12月19日))は、村上天皇第7皇子・具平親王の長女。母は為平親王の次女。後に藤原頼通の正室となり、高倉北政所と呼ばれた。弟に夫・頼通の猶子となった源師房、妹に敦康親王妃、嫥子女王(藤原教通室)がいる。なお史料によっては隆子女王、隆姫子女王とする表記もある[1]。
概要
[編集]『栄花物語』によれば、頼通の父道長は、両親共に皇族の高貴な血筋である隆姫との縁談を「男は妻がらなり」と歓迎したといい、頼通と隆姫の夫婦仲も大変良かった。しかし隆姫には子供はなかったこともあり、三条天皇が頼通に対して娘の禔子内親王を降嫁させたいと持ち掛けた。隆姫を悲しませたくない頼通が躊躇していると、道長に「男は妻は一人のみやは持たる 痴のさまや」と叱責されたという[2]。その後、病床に伏した頼通の元に具平親王の怨霊が現れたともいわれ[3]、結局沙汰やみになった(その後禔子内親王は頼通の弟教通と結婚している)。
とはいえ、とりわけ后候補となる女子に恵まれなかったことは頼通にとっても痛手であり、後に隆姫の姪(妹敦康親王妃の娘)嫄子女王を養女に迎えて後朱雀天皇の中宮とした。古くから頼通は隆姫に頭が上がらなかったために、他の女性との間に生まれた男子を他家に次々と養子に出したと『愚管抄』などにあるが、裏づけとなる根拠はなく、むしろ猶子師房の立場を配慮したためとする説もある[4]。
従一位に至り康平7年(1064年)11月落飾、寛治元年(1087年)11月22日未剋ばかりに93歳という高齢で薨去。豊明節会の最中であり、薨去の報は直ちには知らされなかったという[5]。
脚注
[編集]- ^ 同時代の日記『御堂関白記』『小右記』『権記』でも、隆姫女王・隆子女王・隆姫子女王の三表記が混在しており、『本朝世紀』は隆姫子女王としている。後世の資料である『尊卑分脈』『大日本史料』は隆姫女王、『系図纂要』は隆子女王。また、現代の書籍では『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1993)『講談社日本人名大辞典』(講談社、2001年)は隆子女王、『平安人名辞典』(高科書店、1993)『平安時代史事典』(角川書店、1994年)は隆姫女王をそれぞれ採用している
- ^ 『栄花物語』巻第十二「たまのむらぎく」
- ^ 具平親王の怨霊に言及しているのは『栄花物語』(巻第十二,たまのむらぎく)のみで、『小右記』(長和4年12月13日条)では藤原伊周の霊が現れたとしている。
- ^ 坂本賞三『藤原頼通の時代』(平凡社、1991年)。その後、頼通は実子通房、その急逝後にはその異母弟にあたる師実を後継者としているが、師房の娘である源妧子・麗子姉妹をそれぞれの正室に迎え入れさせており、隆姫・師房への配慮を忘れることは無かった。
- ^ 『中右記』寛治元年11月22日条