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有栖川宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有栖川宮家
家紋
有栖川家菊
家祖 高松宮好仁親王
後陽成天皇の第七皇子)
種別 皇族世襲親王家
出身地 京都山城国
主な根拠地 東京府東京市麹町区霞ヶ関(現:千代田区霞が関)
麹町区三年町(現:千代田区永田町
兵庫県明石郡垂水村
(兵庫県神戸市垂水区
著名な人物 吉子女王
熾仁親王
威仁親王
凡例 / Category:日本の氏族

有栖川宮(ありすがわのみや)は、日本皇室における宮家の一つ。江戸時代初期から大正時代にかけて存在した。世襲親王家の四宮家の一つ。

概要

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寛永2年(1625年)、後陽成天皇の第七皇子、好仁親王を初代として創設された。当初の宮号は高松宮といった[1][2]。宮号の由来は、好仁親王の祖母の新上東門院の御所高松殿である[3]。江戸時代の所領の石高は1000石[注釈 1]

好仁親王には嗣子がなかったため、甥にあたる後水尾天皇の皇子の良仁親王が養嗣子として正保4年(1647年)に第2代として同家を継承し[1]花町宮花町殿)を名乗った[4]

承応3年11月28日1655年1月5日)、良仁親王が後西天皇として践祚することになるが、これは先代後光明天皇の養子の識仁親王(後の霊元天皇)が幼少であったための中継ぎであり、正統(しょうとう)は識仁親王の血統に移る見込みであったことから、後西天皇は自分の皇統には宮号を継承させるべく、皇子の幸仁親王高松宮を継がせた。しかし、幸仁親王は「高松宮」の宮号は後水尾天皇の叡慮ではないとして宮号を有栖川宮に改めた[1]。「有栖川宮」の宮号の由来は明らかではない。

以降、有栖川宮歴代は書道歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、徳川宗家水戸徳川家をはじめ、彦根井伊家長州毛利家広島浅野家久留米有馬家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。また代々、次男以下の子弟を門跡寺院法親王入道親王として入寺させていた。

第5代・職仁親王以降は霊元天皇の皇統に移り、明治期に至る。

明治維新後、8代・幟仁親王は、國學院大學の前身である皇典講究所や神道教導職の総裁に任ぜられ、明治天皇の書道師範をつとめた。また、9代・熾仁親王は王政復古当初は新政府の総裁の座に就き、戊辰戦争に際して東征大総督を務め、西南戦争でも征討総督となった。元老院議長、左大臣を歴任し、1894年(明治27年)の日清戦争では参謀総長の在任中に病死。10代・威仁親王は元帥海軍大将となったほか、皇太子時代の大正天皇をよく輔導するなど、三代にわたり朝廷を支えた。

大正2年(1913年)、10代威仁親王が薨去。一子の栽仁王が先に早世しており、皇室典範では非直系への宮号の継承が認められなかったため、断絶が確定する。しかしこの時、有栖川宮歴代の勲功に鑑み、大正天皇は親王の臨終に際し特旨をもって第三皇子の光宮宣仁親王に、有栖川宮の旧称である高松宮の称号を与え、有栖川宮の祭祀及び財産を継がせる。宣仁親王と後に婚姻する徳川喜久子は、威仁親王の外孫(威仁親王の第二王女の實枝子女王が喜久子妃の母)である[5]

系図

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107代天皇
後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
108代天皇
後水尾天皇
 
初代有栖川宮
好仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
109代天皇
明正天皇
 
110代天皇
後光明天皇
 
111代天皇
(2代有栖川宮)
後西天皇
 
112代天皇
霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3代有栖川宮
幸仁親王
 
113代天皇
東山天皇
 
 
 
 
 
5代有栖川宮
職仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4代有栖川宮
正仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代有栖川宮
織仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代有栖川宮
韶仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8代有栖川宮
幟仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
123代天皇
大正天皇
 
 
 
 
 
9代有栖川宮
熾仁親王
 
10代有栖川宮
威仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124代天皇
昭和天皇
 
高松宮
宣仁親王
 
績子女王
 
栽仁王
 
實枝子女王
 

邸宅

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本邸(京都時代)

有栖川宮の本邸宅の場所は、京都・東京時代を通じ、火災焼失等による仮住まいの期間を除いても複数回の移転があった。

初代好仁親王の時代からほぼ江戸時代を通し、京都御所の北東部分にあたる猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷が存在した。この地は幟仁親王時代の慶応元年(1865年)に、御所の拡張用地として召し上げられた。慶応2年(1866年)までに、跡地は京都御所の敷地に編入されるか道路に転用されたため、建物等の遺構は現存しない。

代わりに下賜されたのが、現在の京都御苑内で「有栖川宮邸跡」の碑が建つ、御所建礼門前の御花畑跡であった(この地は直前まで京都守護職が仮宿舎として利用していた)。この場所に明治2年(1869年)に新御殿が落成したが、わずか3年後の明治5年(1872年)、すでに奠都によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより幟仁親王も東京へ転住することになったため、宮邸の土地家屋は京都府を経て司法省に引き継がれ、京都裁判所として使用された。現在上京区烏丸通下立売角に建つ平安女学院大学の学舎の一つ「有栖館」は、この建物の一部を移築したものと伝えられている。

本邸(東京時代)

幟仁親王より先に東京へ転居していた熾仁親王は、旧高遠藩屋敷(神田小川町、現在の靖国通り「駿河台下」交差点付近)、旧島原藩屋敷(数寄屋橋御門内、現在の日比谷シャンテ付近)などを転々としたあと、明治4年(1871年)に芝浜崎町の旧紀州藩別邸(旧芝離宮恩賜庭園)を本邸とした。しかしここは明治8年(1873年)に宮内省に買い上げられたため、維新後は副島種臣が住んでいた霞が関一丁目二番地の旧三田藩屋敷跡(現在の国会議事堂敷地南東部から国会前庭南地区を経て六本木通りにかけた一帯)1万1千93坪を買上げ、同年8月28日に移転。

明治17年に建設された有栖川宮邸(後の霞関離宮)
同上

しかしこの旧副島邸は既存建物が老朽化していたため、明治13年(1880年)より殿邸の改築が企てられる。工部省営繕局の担当で工事が実施された。そのうちの洋館はジョサイア・コンドル設計の2階建てで建築され、本邸として使用された。この洋館は明治14年(1881年)から明治17年(1884年)7月に竣工までの3年におよぶ工期と約47万円(当時)の費用をかけて建てられ、外国使節の接待施設としての機能も併せ持つ非常に豪華な建物であり、「コンドル博士遺作集」では「荘重なる復興式となし、内部諸室の意匠も都て此方針に拠れり。本建物は蓋し皇族の御殿を純洋風に造りたる嚆矢にして、永く後の模範となりたり」と伝えている。邸宅には前述のコンドル設計の本館(洋館)のほか、木造の日本館があって職員の事務棟などとして使用されていた。

また明治17年(1884年)4月より宮内省内匠課の担当で着手した庭園工事は、明治18年(1885年)6月に完成し、有栖川宮邸としての体裁を完全にととのえることになる。

威仁親王に代替わりした後の明治29年(1896年)には、宮内省によって霞関離宮として買い上げられさらに明治31年(1898年)には建物など一切が買上げられたが、威仁親王の希望により明治36年(1903年)まで継続使用された。明治37年2月8日に宮家から引渡しがあり、2月13日付で霞関離宮となったもので、大正10年より大正12年まで東宮仮御所となる。また日本館はのちに関東大震災で庁舎が被災した帝室林野局が大正13年より昭和12年まで臨時に使用したが、のちに解体されて一部が静岡県掛川市大日本報徳社に移築された。

明治36年12月、隠居した幟仁親王が薨去まで住んでいた、麹町区三年町5番地の隠邸跡(現在の永田町内閣府庁舎)に新本邸が完成し、同月17日に移転[6]。有栖川宮の最後の本邸宅となった。

霞関離宮本館と三年町本邸(絶家後は高松宮邸を経て外務大臣官舎)の両建物は有栖川宮の絶家後も存在し、関東大震災にも耐えたが、ともに昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲で被弾炎上し、終戦後に撤去された[7]

別邸

脚注

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注釈

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  1. ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の有栖川宮家領は山城国葛野郡大石中里村のうち664石1斗3升7合5勺1才2撮、同安養寺村の335石8斗6升2合4勺8才8撮の合計2ヶ村1000石。

出典

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  1. ^ a b c 石田 実洋「冷泉家時雨亭文庫所蔵『朝儀諸次第』と高松宮家伝来禁裏本」『書陵部紀要』第53巻、宮内庁書陵部、2002年、7-8頁。 
  2. ^ 勅使門のおはなし”. 大覚寺. 2023年9月19日閲覧。
  3. ^ 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,精選版. “高松宮(たかまつのみや)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月23日閲覧。
  4. ^ 世界大百科事典内言及. “花町宮(はなまちのみや)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月24日閲覧。
  5. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア. “高松宮宣仁(たかまつのみやのぶひと)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月23日閲覧。
  6. ^ 『官報』第6140号、明治36年12月18日。
  7. ^ 有栖館(有栖川宮旧邸)庭園 ― 11代目小川治兵衛作庭…京都市上京区の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】”. oniwa.garden. 2023年3月23日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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