京都御苑
京都御苑 Kyoto Gyoen National Garden | |
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分類 | 国民公園 |
所在地 | |
座標 | 北緯35度01分24秒 東経135度45分48秒 / 北緯35.023289度 東経135.763306度座標: 北緯35度01分24秒 東経135度45分48秒 / 北緯35.023289度 東経135.763306度 |
面積 | 約65 ha |
運営者 | 環境省 |
事務所 | 環境省 京都御苑管理事務所 |
事務所所在地 | 京都市上京区京都御苑3 |
公式サイト | 京都御苑 |
京都御苑(きょうとぎょえん)は京都府京都市上京区にある環境省所管の国民公園。京都御所の周囲の緑地で旧公家町の一帯を指す。
概要
[編集]京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に区切られた区域。東西約700m、南北約1300mの範囲で、総面積は92ヘクタール。その内、環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである[1]。江戸時代から遺る9ヶ所の外周御門と6ヶ所の切り通しを持つ。
明治の東京奠都の際、公家町として御所を囲んでいた公家屋敷の大半が引越し廃れてしまったため、その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民憩いの場とした[2]。約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園となった[3]。
現在は京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。
多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所の他、一般社団法人国民公園協会が管理を行うグラウンドやテニスコートに各休憩所、資料館、レストラン、カフェ、土産店、大型駐車場などもあり、市民の憩いの場になっている。
歴史
[編集]京都御苑の歴史は明治時代に始まるが、御苑の中心をなす京都御所の禁裏としての歴史は平安時代の土御門内裏(東洞院土御門内裏)にまでさかのぼることができる[4]。その後、歴代の天皇がここを御所としたのは、明徳3年(1392年)に南北朝が合一した際、土御門内裏が正式な御所として確認されて以降、明治に至るまでである[4]。この間の500数十年、建物は何度も火災で焼失するなど幾多の盛衰があり、特に室町時代から戦国時代にかけては見る影もなく荒れ果てた[4]。
これらの修築、再建を始めたのは上洛してきた織田信長で、この時代に内裏はかなり大規模な建造が行われたようである[4]。続く豊臣秀吉の時代には修造のみならず内裏周辺の整備にも力が入れられた[4]。天正年間、秀吉は大規模な都市改造の一環として堂上公家をあまねく禁裏(御所)周辺に移住させた。ただし、近年の研究では公家の集住政策は織田信長から引き継いだもので京都の改造とは直接的な関係はないこと、新家の設立による土地不足や経済的な問題によって全ての堂上公家がこの地域に住めた訳ではなかったことも指摘されている[5]。
このように、市内の町々に混在していた多くの公家屋敷が禁裏御所を中心に集められて公家町を形成し[4]、江戸時代には御料など所領の策定がなされて、仙洞御所や女院御所など、殿舎が充実するに至ったが[4]、現在の京都御苑と比べるとまだ随分と狭いものだった[6]。その後、これら公家町の拡張整備のきっかけとなったのが京都の中心部を焼失させた宝永5年の大火(1708年)である[6][7]。この火災によって内裏をはじめとした諸御所や公家屋敷78軒のみならず、大名屋敷24軒のほか、禁裏役人の役屋敷などをことごとく焼失した[6]。大火後の復興にあたり、丸太町通以北、烏丸通以東に食い込んでいた町家区域を立ち退かせて、その跡地を公卿らに分与し、現在の京都御苑の原型となるような区画が整えられた[6]。ただし、四方の大通りに面して9つの門を配し、それらを石垣でつないで周囲に巡らせた、現在見られるような整然とした矩形に整備されるのは明治に入ってからになる[6]。
明治になると明治天皇に従って多くの公家が東京へ移り、華族制度の発足と共に全ての華族の東京移住が義務付けられたことで、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。この状況を憂慮した岩倉具視は、旧慣保存のためにもなることを理由に明治10年(1877年)、御所の保存を建議した。これを受けて京都府は御所を囲む火除け地を確保することを目的に、軒を連ねる旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を開始した。これが京都御苑の始まりである。
当初は周囲の土塁と堀を整備するにとどまったが、その後も整備は徐々に進められ、明治16年(1883年)に御苑の管理が京都府から宮内省に移管され後も続けられた。大正天皇の大礼が京都御所で行われることになると整備は急進展を見せ、建礼門前大通に大規模な改修工事が施されてほぼ現在の姿になった。
戦後、宮内省が解体されると、昭和24年(1949年)には厚生省の管理運営のもと御苑は国民公園となった。
昭和34年(1959年)、新たに「京都御苑」の町名が設置された[8]。市街地において屈指の広さをもつこの新しい住所(区画)によって一線を画された町は上京区で23町[9]、中京区で14町[10]にのぼる[8]。
昭和46年(1971年)に各省庁で環境や公害に関係する部署を統合して環境庁が創設されることになると、厚生省の大臣官房国立公園部も環境庁に移ることになり、これに伴い御苑も同庁の所轄となった。これが環境省に引き継がれて今日に至っている。
隣接する二つの神社
[編集]京都御苑に隣接して西に護王神社、東に梨木神社が鎮座している[11]。護王神社には平安京最初の天皇である桓武天皇の忠臣和気清麻呂、梨木神社には幕末期の京都で過ごした最後の帝である孝明天皇の重臣三条実万がそれぞれ祭神として祀られており、いずれも京都御苑の保存が決まったのちの明治18、9年に至って、現社地に遷座あるいは建立されたものである[11]。御所の保存に尽力した岩倉具視は、自身の最晩年には、御苑内の旧仙洞御所跡に桓武天皇を祀る平安神宮を建立する考えを持っていたとされ、岩倉の没後も宮内省の官辺はこの構想の下、平安神宮に近侍する形で二つの神社を建立する発想があったものと思われる[11]。結果的に平安神宮はより広い敷地が確保できた岡崎の地に建立され(明治28年)、梨木・護王の両神社が御苑の東西に残った。大正4年(1915年)、両神社は京都御所において執り行われた「大正天皇即位の礼」の祝賀の一環としてそれぞれ祭神を一柱加えた(梨木:三条実美、護王:和気広虫)[11]。一方、桓武天皇と孝明天皇を祭神に祀る平安神宮は、毎年の例祭において二基の神輿(鳳輦)を岡崎から京都御所の建礼門まで神幸させて、祭典を執り行っている(参照時代祭)。
中山邸跡
[編集]- 中山邸跡 - 嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産んだ中山家の産屋と明治天皇の幼少時代の名前「祐宮」にちなんだ井戸「祐井」(さちのい)が現在も遺構として残っている。
旧九条家茶室「拾翠亭」
[編集]桂宮邸跡
[編集]外周御門と蛤御門
[編集]9ヶ所に建つ江戸時代から遺る公家町からの京都御苑の外周御門・「高麗門」( 堺町御門、下立売御門、蛤御門、中立売御門、乾御門、今出川御門、石薬師御門、清和院御門、寺町御門の9門全て現存)[14]と京都御苑を囲む石垣が往時の公家町の広さが偲ばれる。
上記の蛤御門は、元々「新在家御門」といい、開かずの扉であったが、1788年の天明の大火の際に初めて開門された。この為、「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門と呼ばれるようになった。
また、1864年(元治元年)に尊王攘夷派(長州藩)と徳川幕府(会津藩)の戦いである蛤御門の変(禁門の変)が勃発した。現在でもこの戦いの傷跡である銃弾の痕がこの高麗門に残されている。
建造物・遺構
[編集]御所・京都仙洞御所および京都大宮御所以外にも、京都御苑には公家の邸宅をはじめとする遺構が数多く残されている。9ヶ所の京都御苑外周門の他に宮家のものとしては南西部に閑院宮家の邸宅が保存されている。北部には桂宮邸跡の邸宅の築地塀と表門と勅使門が残る(内部の建物群は二条城の本丸に移築保存されている)。
閑院宮邸跡収納展示館
[編集]閑院宮載仁親王が明治10年(1877年)に東京に移住するまでの邸宅であるとされているが、現在の建物との関連性は詳しく分かっていない。明治16年(1883年)5月に閑院宮邸内に宮内省京都市庁舎の建設がはじめられ、同年12月には現在の形態に近いものが完成した。その後、所管を宮内省から厚生省、環境省と移しながら現在に至る。
建物は、中央の中庭を四つの棟で囲む平面構成となっている。東棟は正面入母屋造千鳥破風の車寄せ玄関がある。南棟は資料展示室・収蔵室になり、南側全体に庇を付けた大きな瓦屋葺きの反り屋根を持つ。西棟はレクチャーホールで北棟が事務棟となっている[15]。小規模での修繕が繰り返されてきたが、建物全体の破損や狂いが大きくなってきたため、平成15年(2003年)に全体の修復整備を行うこととなった。外観は建設当時の状態の保存をはかりつつ、後補の不必要な部分や内部の模様替え部分を撤去・整備する方針で行われた。平成18年(2006年)3月に完成し、現在の姿となった。
京都御苑の自然や歴史を学ぶことのできる収納展示室があり、庭園を見ることもできる[16]。
猿ヶ辻
[編集]京都御所の東北角、御所の鬼門にあたるところに御幣を担ぐ山王権現日吉社の猿が浮き彫りにされている。また、角が直角ではなく一部をへこませている。文久3年(1863年)、尊攘派の公家・姉小路公知が暗殺された場所でもある(朔平門外の変)[17]。
その他の遺構
[編集]上記の建造物以外には以下のようなものがある。
- 縣井・県井(あがたい) -京都御苑の北西に位置し五摂家のひとつ、一条家の邸宅跡に遺る井戸。 宮内庁京都事務所の西側に位置している。
明治天皇の皇后となった一条美子(はるこ:昭憲皇太后)のうぶ湯に用いられたと伝えられており、古くから名水とされてきた。
併記して、地方官吏に任命されたいと願う人々は、この井戸で身を清めてから社に祈願し、宮中に参内したと伝わる[18]。
- 厳島神社 - 五摂家の一つである九条家の鎮守社で、安芸宮島の厳島神社から勧請されたと伝わる。同じく旧九条家の遺構・茶室「拾翠亭」が隣に残る。また、九条家の庭園にある大池は九条池と呼ばれ、池を囲む庭園は保存されており、かつての摂家であった最高位の公家の生活を今に偲ぶことができる。
- 二条御所(二条古城)石垣 - 足利将軍の「花の御所」と呼ばれた往時から城の僅か石垣が遺り復元され当御苑内「京都御苑」及び「元離宮二条城」に両設し遺構を伝えている。
- 出水の小川
- 学習院跡 - 幕末の京都に公家の教育機関として設けられた「京都学習院」の跡。京都御所の東側にある建春門近くに「学習院跡」の石碑と案内板がある。
- 近衛家跡 - 江戸時代に近衛家は、烏丸今出川の京都御苑内にあった。その場所は、同志社大学今出川キャンパスの向かいに位置する。築地塀や建物はないが、池を囲む庭園は保存されており、九条家址の九条池に対し近衛池とよばれている。池の周囲には、有名なしだれ桜である「近衛桜」があり、御花見シーズンには市民でにぎわう。
自然
[編集]京都御苑内には500種以上の植物がある。苑内には約5万本の樹木が生育しており、多くは明治以降に植栽されたものである。マツ、ケヤキ、シイ・カシ類、イチョウなどのほか、ウメ、モモ、サクラ、サルスベリなどの花の咲く木も多く、これら多彩な樹々が御苑の風格と四季の彩りをなしている。また、スミレ、タンポポどの草花やキノコ類も多く見られる。キノコ類は400種以上が確認されており、一年を通じて観察できる。
苑内には動物も多く見られる。野鳥の観測地として知られ、100種以上の野鳥が確認され、そのうち約20種は苑内で繁殖されている。代表的な鳥としてはアオバト、ビンズイ、トラツグミ、ゴイサギなどがあげられる。昆虫類も多く見られ、チョウ類55種、トンボ類26種、セミ類8種などが確認できる。
苑内には、自然に親しむ場所として「母と子の森」「トンボ池」「出水の小川」などが整備されているほか、「母と子の森」内の「森の文庫」では植物や生物など自然についての本が置かれたり、閑院宮邸跡の収納展示室で自然や歴史について解説とともに学ぶこともできる。
仙洞御所の池には魚類が生息している。ハゼ類の研究者として知られる上皇明仁は、ここで採取したヨシノボリの遺伝子解析により、ビワヨシノボリとシマヒレヨシノボリの交雑種であることを明らかにした論文を2019年発表した[19]。
こうした環境が京都市内の中心部にあることで、散策や花見のほか、バードウォッチングや自然観察会などに多くの人が訪れる場となっている[20]。
催事
[編集]- 葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭である。催事は京都御苑の建礼門前大通りから出発地点となる。
- 時代祭(じだいまつり)は、平安神宮の例大祭(10月22日)に附属する年中行事である。神宮創建と平安遷都を祝して明治時代より始められた京都三大祭りの一つ。催事は京都御苑の建礼門前大通りから出発地点となる。
その他
[編集]京都の住民は、京都御苑の区域を指して単に「御所」と呼ぶことが多い。
公園内ではのんびりと散歩を楽しむ人やバードウォッチングをする人もいる。御苑の北隣には同志社大学と同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)があるため、ベンチで寝転ぶ学生の姿をよく見かける。また、住民の通り抜けルートにもなっているが、通路部分は舗装されておらず、砂利が敷き詰められているため自転車では走りづらい。しかし、自転車の走行跡が砂利道にできて走りやすくなっている部分もある。この走行跡は御所の細道と呼ばれることがある。ただし、走行跡は自転車一台分の幅しかないため、対向車が来た場合は譲り合う光景が見られる[21]。
公園内は京都府警や皇宮警察が常に見回りをしていて、京都御所や仙洞御所の塀に近づくとセンサーが反応し、すぐに注意される。
公園内への放置自転車が、2010年代に入って目立つようになっている。主に、近隣の京都市営地下鉄丸太町駅の利用者が停めているものと見られている。地元住民からは、公園の美観を損なうなどとして撤去を求める声が強いが、公園内は京都市の撤去条例の対象外となっており、公園管理者である環境省などは対応に苦慮していた[22]が、中立売休憩所付近に駐輪場が設けられた。
アクセス
[編集]画像集
[編集]-
梅の花(御苑内梅林)
-
御所水道からつながっていた散水栓の痕跡。(2014年2月22日撮影)
参考文献
[編集]- 環境省京都御苑管理事務所編 国民公園協会京都御苑編『国民公園京都御苑 自然と歴史』環境省京都御苑管理事務所、2006
- 尼崎博正、旧九条邸園池の変遷、瓜生:『京都芸術短期大学紀要』、1983、pp. 1 – 17
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 『国民公園 京都御苑』(環境省京都御苑管理事務所が作成しているパンフレットより、平成24年10月改定)
- ^ 意外に知らない御苑のこと 御所との違いを知っていますか 上京区役所、上京ふれあいネット「カミング」
- ^ 京都御苑概要 環境省
- ^ a b c d e f g 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、196-198頁。
- ^ 登谷伸宏『近世の公家社会と京都 集住のかたちと都市社会』(思文閣出版、2015年) ISBN 978-4-7842-1795-3
- ^ a b c d e 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、169-174頁。
- ^ 冷泉為人「江戸時代の京都・公家町における災害と復興」『京都の歴史災害』吉越昭久・片平博文編、思文閣、2012年、96頁。
- ^ a b 川嶋将生・鎌田道隆『京都 町名ものがたり』京都新聞社、1979年、194-195頁。
- ^ 春日町、堀松町、五丁目町、桜鶴円町、鷹司町、龍前町、広橋殿町、観三橘町、梅屋町、今出川町、玄武町、新北小路町、常盤井殿町、革堂之内町、大原口町、大原口突抜町、真如堂突抜町、真如堂前町、染殿町、東桜町、荒神町、松陰町、信富町
- ^ 下御霊前町、石屋町、毘沙門町、昆布屋町、舟屋町、桝屋町、桑原町、四丁目、鍵屋町、坂本町、関東屋町、三本木町、光り堂町、大倉町
- ^ a b c d 岡田精司『京の社』塙書房、2000年、278-283頁。
- ^ “公家邸跡の庭園”. 環境省. 2022年5月24日閲覧。
- ^ “歴史にふれる:京都御苑 | 一般財団法人国民公園協会”. 京都御苑 | 一般財団法人国民公園協会]. 2022年6月14日閲覧。
- ^ “江戸時代からの外周御門 京都御苑 環境省”. 環境省. 2022年4月1日閲覧。
- ^ 堂岡實「閑院宮邸跡建物改修工事」(『京都御苑ニュース』83号、2004年9月、財団法人国民公園協会京都御苑)
- ^ 京都御苑 御苑案内図(閑院宮邸跡) https://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/2_guide/map2_kaningu.html
- ^ 『京都大辞典』(淡交社、昭和59年)
- ^ “京都御苑 県井の山吹”. 京都旅屋. 2024年2月5日閲覧。
- ^ 「天皇陛下がハゼの論文発表 魚類学者として33本目」 日本経済新聞ニュースサイト(2019年4月5日)2019年4月9日閲覧。
- ^ 国民公園協会京都御苑編『京都御苑の自然 観察ガイドブック』国民公園協会京都御苑、2010
- ^ 京都御苑のサイクルロード - ウェイバックマシン(2007年9月29日アーカイブ分)
- ^ 放置自転車:京都御苑が駐輪場!?市営地下鉄の利用者放置 環境省「条例基づき撤去を」 毎日新聞 2012年9月2日
- ^ 二条城の概要 二条城
- ^ 第3回「京都御苑ずきの御近所さん」葵祭行列保存会会長京都橘大学名誉教授 猪熊兼勝様 環境省、2016年7月29日
外部リンク
[編集]- 京都御苑-環境省
- 京都御苑 | 一般財団法人国民公園協会
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