鍋島直大
鍋島直大 なべしま なおひろ | |
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生年月日 | 1846年10月17日 |
出生地 | 日本 江戸(現・東京都) |
没年月日 | 1921年6月19日(74歳没) |
出身校 | オックスフォード大学 |
前職 | 駐イタリア王国特命全権公使 |
称号 |
従一位 勲一等旭日桐花大綬章 侯爵 |
配偶者 |
鍋島胤子(正室) 広橋榮子(継室) |
子女 |
長男・鍋島直映 次女・梨本伊都子 四女・松平信子 四男・鍋島直縄 六女・松平俊子 |
親族 |
義兄・藤波言忠(貴族院議員) 弟・鍋島直虎(貴族院議員) 弟・鍋島直柔(貴族院議員) 義弟・広橋賢光(貴族院議員) 娘婿・前田利嗣(貴族院議員) 娘婿・松平恆雄(参議院議長) 娘婿・柳沢保承(貴族院議員) 甥・細川護立(貴族院議員) 甥・細川護成(貴族院議員) 従兄・鍋島直彬(沖縄県令) |
在任期間 | 1890年2月 - 1921年6月18日[1] |
在任期間 | 1882年5月31日 - 1886年2月15日 |
鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、江戸時代末期(幕末)の大名。明治・大正時代の政治家、外交官。位階・勲等・爵位は従一位勲一等侯爵。肥前佐賀藩第11代藩主(最後)、同藩初代藩知事、駐イタリア特命全権公使、元老院議官、宮中顧問官、式部長官などを歴任した。
第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。李晋・李玖兄弟は曾孫にあたる。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前は将軍・徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。
来歴・人物
[編集]幕末
[編集]父・鍋島直正(当時は斉正)の正室・盛姫(11代将軍・徳川家斉の十八女)には子がなく、37歳で早逝したため継室として迎えた田安徳川斉匡の十九女・筆姫(1830年 - 1886年)の嫡男として1846年(弘化3年)8月27日に江戸で生まれる。なお、実母は側室・濱(姉川鍋島茂郷)の娘)。幼名は淳一郎、後に直縄、茂実、1868年より直大。後の外交官で洋画家の百武兼行は淳一郎の4つ上のお相手役だった。
嘉永2年(1849年)、当時不治の病とされた牛痘の治療のため、藩医であった伊東玄朴が痘苗の入手を進言し、藩はオランダ商館に種痘苗の入手を依頼した。出島の医師オットー・ゴットリープ・モーニッケがバタヴィアから牛痘苗を入手し、1848年7月に佐賀藩医の楢林宗建の息子に接種した。これを直正は4歳の淳一郎(直大)にも施させた。
文久元年(1861年)、将軍・徳川家茂から茂の偏諱と松平の名字を与えられる[2]。同年11月20日、父の隠居により16歳で佐賀藩主を襲封した。藩政刷新を進め、藩の殖産としてパリ万国博覧会(1867年)に有田焼を出展している。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では政府軍に組みし、佐賀藩兵を率いて指揮を執り、東北に派兵、各地を転戦した。とくに関東に移ってからは上野戦争や野洲梁田で戦い、5月、下総野鎮撫府に任命されると下総国、上総国の監督にあたった。しかし下野国での旧幕軍との戦闘が激しくなり、佐賀藩士を駐屯させたまま6月に鎮撫府を宇都宮城に移すなどして7月まで勤めた。
明治以降
[編集]明治政府に出仕すると、軍制改革と海軍創設の急務を説き、議定職外国事務局輔、横浜裁判所副総督、外国官副知事等、江戸開市取扱総督等を歴任した。父の代にオランダから佐賀藩が購入し明治政府が徴発していた軍艦電流丸で、慶応4年(1868年)3月26日、大阪の天保山沖で日本初の「観艦式」に旗艦として臨んだ。翌明治2年(1869年)には版籍奉還の上表書に薩長土肥の1国として連署。また同年、議政官が行政官に統合された折、それまで31名いた議定の公選により、筆頭輔相に三条実美、続く定員4名の議定に岩倉具視、徳大寺実則と並び大名家から唯一、直大が選出された。また戊辰戦争の功績で賞典禄2万石を賞与された。この頃直大は戊辰戦争で亡くなった藩士を奉じて佐賀縣護國神社を建てた。
明治4年(1871年)、廃藩置県により佐賀藩知事となったがこれを辞して岩倉使節団としてアメリカに留学、また明治6年(1873年)には2人の弟直虎・直柔とともにイギリスに留学している。直大は、オックスフォード大学で文学研究の勉学に励んだ[3]。そのため、この間に起きた島義勇・江藤新平らが起こした佐賀の乱の際には日本に居なかった。留学中の明治9年には東京府渋谷町大山の紀州徳川家下屋敷を買い、維新で失職した武士を集めて茶園「松濤園」を開いた(現在の松濤や鍋島松濤公園の由来)。
1878年(明治11年)に帰国すると、翌年外務省御用掛となり、明治12年(1879年)には渡辺洪基、榎本武揚らと東京地学協会設立、徳大寺実則、寺島宗則らと共同競馬会社設立などに動き、明治13年(1880年)駐イタリア王国特命全権公使となる。次女の伊都子はこのとき産まれた子で、名前は出生地のローマ(“イタリアの都”)にちなむ。公使としての活躍は、横浜の豪商・伏島近蔵の渡伊日記などに記録が残っている。
明治15年(1882年)帰国し、元老院議官、宮中顧問官等を歴任。明治天皇・大正天皇の信頼も厚かった。明治16年(1883年)には数少ない洋行帰りの名士として鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営、外国人居留地や避暑地の整備、鉄道建設、音楽推進など井上馨とともに近代化政策を牽引した。
イタリア帰りであることから、夫人栄子とともに鹿鳴館建設時にダンスを踊れた数少ない華族の一人であり、鹿鳴館のダンス練習会も直大が幹事長をやっていた[4]。
明治17年(1884年)に侯爵に列する[4]。明治19年(1886年)には、大日本音楽会設立、会長となる(副会長には伊澤修二、幹事に村岡範為馳ら)。
明治23年(1890年)2月には貴族院議員となった[1]。同年11月29日の開院式の日には臨御した明治天皇を式部長官として先導して議場に入った[5]。
東京音楽学校開校式、並びに「奏楽堂」落成を記念して開校記念歌「都の春」の作詞を行った。早稲田大学の大学部設置や理工科増設に係る募金計画に協力し、特に理工科新設の際には直大が華族中の筆頭額を申し出、これにより明治41年(1908年)11月に安田善次郎とともに最初の早稲田大学校賓となった[6]。明治44年(1911年)、皇典講究所第4代所長、國學院大學学長に就任した。大正10年(1921年)薨去、享年76。墓地は菩提寺の賢崇寺ではなく青山霊園だったが、鍋島家が平成27年(2015年)に青山霊園の墓所を墓じまいし[7]、佐賀市の春日山御墓所に改葬された。佐嘉神社には父・直正とともに祀られている。
- 聖徳記念絵画館所蔵の絵画に描かれる鍋島直大
年表
[編集]- 1861年(文久元年) - 従四位下侍従兼信濃守に叙任(肥前守に改まる)[11]。
- 1868年(明治元年) - 外国事務局権輔[11]。横浜裁判所副総裁を兼任[11]。外国官副知事[11]。
- 1869年(明治2年) - スペインとの和親貿易条約締結の全権委任、正四位下右近衛権少将[11]。
- 1871年(明治4年) - 佐賀県知事。知事職を辞し英国留学[11]。
- 1873年(明治6年) - 帰国するも、英国へ5年間再留学[11]。
- 1879年(明治12年) - 来日するプロイセン王族・イタリア王族およびグラント米前大統領の接伴掛。従三位。外務省御用掛[11]。
- 1880年(明治13年) - イタリア王国特命全権公使に赴任。
- 1882年(明治15年)
- 1884年(明治17年)
- 1886年(明治19年)2月15日 - 元老院議官を辞す[11][12]。
- 1890年(明治23年) - 勲二等旭日重光章[11]。
栄典
[編集]- 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[16]
- 1887年(明治20年)
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[19]
- 1895年(明治28年)7月23日 - 勲一等瑞宝章[20]
- 1897年(明治30年)
- 1915年(大正4年)
- 1921年(大正10年)6月18日 - 従一位旭日桐花大綬章[25]
- 外国勲章佩用允許
- 1882年(明治15年) - イタリア王国:サンモーリスエラザル第一等勲章[26]
- 1885年(明治18年)
- 1888年(明治21年)3月6日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章[29]
- 1891年(明治24年)5月1日 - シャム王国:王冠第一等勲章[30]
- 1907年(明治40年)1月17日 - 大清帝国:頭等第三双龍宝星[31]
- 1908年(明治41年)10月10日 - 大韓帝国:大勲位李花大綬章[32]
家族
[編集]- 父:鍋島直正(1815–1871)
- 母:濱、瀧村 - 鍋島茂郷の娘
- 正室:駒姫、胤子、祚子 - 胤子は梅渓通善の娘。通善は参議・六条有言の次男で侍従・梅渓通修の養子となり、右近衛権中将、宇佐勅使を経て参議、従三位となり、神祇少副などを歴任した公卿で、子孫に梅溪通虎らがいる[33]。母は甘露寺愛長の娘・親子。1864年直大と結婚。1870年長女の郎子を出産。1874年直大の再渡欧に同行。そこで西洋の文化を身につけるためにダンスやピアノの稽古を始めた。1878年に帰国し、2年後に31歳で病没。胤子と子供たちの世話係として一緒に渡欧した北島以登子(佐賀藩士の娘)は1881年にも直大・栄子夫妻の洋行に同行、1884年から宮内省御用掛に任命され、英語の通弁として昭憲皇太后に仕えた[34][35][36]。
- 継室:榮子(1855–1941) - 広橋胤保の娘、前夫は岩倉具視長男の岩倉具義、兄に広橋賢光、藤波言忠
- 側妾:朝千代 - 大木益知の次女
- 養子
出典
[編集]- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』20頁。
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、208頁。村川浩平「肥前佐賀藩、鍋島氏への松平氏下賜」『駒沢史学』87号、2017年。
- ^ 佐賀市地域文化財データベースサイト さがの歴史・文化お宝帳~香月経五郎
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 4.
- ^ ドナルド・キーン下巻 2001, p. 119.
- ^ 早稲田大学総長奥島孝康『早稲田大学校賓名鑑 - 早稲田を支えた人々』、早稲田大学事業部、2002年、50頁。
- ^ 森下香枝 (2023年3月29日). “「無縁遺骨」を追う 第7回 : 青山霊園から消えた旧華族の「無縁墓」 守る人のいない遺骨の漂流先”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2023年3月29日閲覧。
- ^ 打越孝明 2012, p. 41.
- ^ 打越孝明 2012, p. 131.
- ^ 打越孝明 2012, p. 137.
- ^ a b c d e f g h i j k 「なべしま・ちょくだい(侯爵鍋島直大)」『日本現今人名辞典』訂正3版。
- ^ a b c d e 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』287-293頁。
- ^ 7月の官員名簿だと「式部寮」(217頁)の頭は空白だが、「元老院」以下に「議官兼式部頭 従三位 鍋島直大」とある(彦根, 正三 (Hikone, Shōzō) 編『改正官員録. 明治15年7月』博公書院、1880-1884、21頁 。 (NDLJP:779311)。そして彦根, 正三 (Hikone, Shōzō), ed (1880-1884). 改正官員録. 明治15年8月. 博公書院. p. 219 (NDLJP:779312)で「式部寮」の部に頭として明記
- ^ 爵位#1884年(明治17年)7月7日の叙任を参照。
- ^ 式部寮を式部職に再組織の際、職名を「長官」と改名。大蔵省印刷局, ed (1884年10月3日). 官報. 1884年10月03日. 5. 太政官第80号: 日本マイクロ写真. pp. 2-. NDLJP:2943586 . "宮内省中式部寮を廃し更に式部職を被置、職制・俸給、左の通り被定候。条此旨相達候事(左大臣)"
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第1351号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 黄綬褒章下賜」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3620号「叙任及辞令」1895年7月24日。
- ^ 『官報』第4198号「叙任及辞令」1897年7月1日。
- ^ 『官報』第4200号「叙任及辞令」1897年7月3日。
- ^ 『官報』第813号「宮廷録事 - 恩賜並追賜」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2665号「叙任及辞令」1921年6月20日。
- ^ 「元老院議官鍋島直大伊国勲章佩用」 アジア歴史資料センター Ref.A15110035300
- ^ 『官報』第554号「賞勲叙任」1885年5月9日。
- ^ 『官報』第573号「賞勲叙任」1885年6月1日。
- ^ 『官報』第1403号「叙任及辞令」1888年3月7日。
- ^ 『官報』第2350号「叙任及辞令」1891年5月4日。
- ^ 『官報』第7079号「叙任及辞令」1907年2月6日。
- ^ Interview with Naohiro Nabeshima, the march of Japanese court treasurer
- ^ 梅渓通善コトバンク
- ^ 『明治日本のナイチンゲールたち』今泉宜子、扶桑社、2014
- ^ 北島伊登子デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 菊御紋付桑煙草盆文化遺産データ
参考文献
[編集]- 「なべしま・ちょくだい(侯爵鍋島直大)」『日本現今人名辞典』(訂正3版)日本現今人名辞典発行所、1903年。NDLJP:782773 。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』柏書房、1995年。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年。ISBN 978-4121018366。
- 打越孝明 著、明治神宮 編『明治天皇のご生涯』新人物往来社、2012年。ISBN 978-4404042095。
- ドナルド・キーン下巻『明治天皇』 〈下巻〉、新潮社、2001年。ISBN 978-4103317050。
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 坊城俊政(→欠員) 式部頭 |
式部長 1889年 - 1895年 式部長官 1884年 - 1889年 式部頭 1882年 - 1884年 |
次代 三宮義胤 |
先代 東久世通禧 |
外国官副知事 1868年 |
次代 小松清廉 |
その他の役職 | ||
先代 辻新次 |
伊学協会会長 1896年 - 1921年 |
次代 鍋島直映 |
先代 榎本武揚 |
東京地学協会会長 1909年 - 1921年 |
次代 徳川頼倫 |
先代 佐々木高行 |
全国神職会会長 1911年 - 1920年 |
次代 小橋一太 |
先代 伊達宗城 |
華族会館長 1885年 - 1886年 |
次代 三条実美 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
侯爵 (佐賀)鍋島家初代 1884年 - 1921年 |
次代 鍋島直映 |
- 佐賀鍋島家
- 幕末の大名
- 知藩事
- 貴族院侯爵議員
- 大正時代の貴族院議員
- 明治時代の貴族院議員
- 在職中に死去した日本の貴族院議員
- 日本の宮中顧問官
- 東亜同文会の人物
- 東京地学協会の人物
- 國學院大學学長
- 日本の宮内省関係者
- 日本の元老院議官
- 明治日本の公使
- 佐賀藩主
- 帝国軍人援護会の幹部
- 造家学会・建築学会の人物
- 興亜会の人物
- 岩倉使節団の人物
- 日本の神 (人物神 江戸時代大名)
- 勲一等旭日桐花大綬章受章者
- 勲一等旭日大綬章受章者
- 勲一等瑞宝章受章者
- 勲二等旭日重光章受章者
- 金製黄綬褒章受章者
- タイ王冠勲章受章者
- 聖アンナ勲章受章者
- 聖スタニスラフ勲章受章者
- 大勲位李花大綬章受章者
- 幕末佐賀藩の人物
- 在イギリス日本人
- 在イタリア日本人
- 佐賀県出身の人物
- 1846年生
- 1921年没
- 大日本帝国憲法関連の人物