徳川篤敬
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徳川 篤敬 とくがわ あつよし | |
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生年月日 | 1855年11月9日 |
没年月日 | 1898年7月12日(42歳没) |
出身校 | 陸軍士官学校卒業 |
称号 |
従二位 勲二等瑞宝章 侯爵 |
配偶者 | 徳川總子 |
子女 |
長男・徳川圀順 次男・徳川宗敬 |
親族 |
叔父・徳川慶喜(征夷大将軍・貴族院議員) 義兄・蜂須賀茂韶(貴族院議長) 義弟・松平親信(貴族院議員) 義兄弟・松平頼寿(貴族院議長) 義兄弟・徳川義礼(貴族院議員) 従弟・徳川厚(貴族院議員) 従弟・池田仲博(貴族院議員) 従弟・徳川慶久(貴族院議員) 従弟・徳川誠(貴族院議員) |
選挙区 | 侯爵議員 |
在任期間 | 1890年2月 - 1898年7月12日 |
徳川 篤敬(とくがわ あつよし、1855年11月9日(安政2年9月30日) - 1898年(明治31年)7月12日[1])は、水戸徳川家第12代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。
水戸藩の第10代藩主・徳川慶篤の長男で、叔父である第11代藩主・徳川昭武の養嗣子となった。最後の将軍・徳川慶喜の甥でもある。妻は松平頼聰の長女・總子(又従姉妹にあたる)。弟に徳川篤守(清水徳川家当主)がいる。子に徳川圀順、徳川宗敬、敬子(松浦陞室)らがいる。幼名は鉄之允。諡号は定公。
経歴
[編集]陸軍士官学校を卒業後、明治12年(1879年)にフランスに留学する。明治16年(1883年)、養父・昭武の隠居により家督を相続する。イタリア特命全権公使、式部次長などを歴任する。明治26年(1893年)には大日本写真品評会会長に就任している。
帝国議会開設に伴い、1890年(明治23年)2月、貴族院侯爵議員に就任し[1]、死去するまで在任した[1][2]。墓所は常陸太田市瑞龍山。
栄典
[編集]- 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[3]
- 1890年(明治23年)10月8日 - 従三位[4]
- 1896年(明治29年)3月4日 - 勲四等瑞宝章[5]
- 1897年(明治30年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[6]
- 1898年(明治31年)7月12日 - 従二位勲二等瑞宝章[7][8]
- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』19頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、9頁。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第2187号「叙任及辞令」1890年10月11日。
- ^ 『官報』第3802号「叙任及辞令」1896年3月5日。
- ^ 『官報』第4198号「叙任及辞令」1897年7月1日。
- ^ 『官報』第4510号「叙任及辞令」1898年7月13日。
- ^ 『官報』第4511号「叙任及辞令」1898年7月14日。
- ^ 『官報』第3077号「叙任及辞令」1893年9月29日。
- ^ 『官報』第3795号「叙任及辞令」1896年2月26日。
- ^ 『官報』第4002号「叙任及辞令」1896年10月29日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
[編集]- 二条基弘(篤敬が会長を務めた写真協会の副会長)
公職 | ||
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先代 三宮義胤 |
式部次長 1895年 - 1898年 |
次代 戸田氏共 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
侯爵 (水戸)徳川家初代 1884年 - 1898年 |
次代 徳川圀順 |