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松平頼之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 頼之
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 安政5年6月1日1858年7月11日
死没 明治6年(1873年8月11日
改名 廿二麿(幼名)、昭鄰、頼之
官位 従五位
陸奥守山藩知事→常陸松川藩知事
氏族 水戸徳川家守山松平家
父母 父:徳川斉昭、母:万里小路睦子
養父:松平頼升
兄弟 賢姫、祝姫、徳川慶篤、松姫、
徳川慶喜池田慶徳池田茂政直侯、八代姫、武聰喜連川縄氏昭訓
徳川貞子忠和土屋挙直、愛子、
徳川昭武喜徳頼之、正姫ら22男15女
養子:喜徳
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松平 頼之(まつだいら よりゆき)は、陸奥国守山藩常陸国松川藩)第7代(最後)の藩主(知藩事)。水戸支流頼元系松平家8代。15代将軍・徳川慶喜の弟。

生涯

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安政5年(1858年)6月1日、常陸国水戸藩藩主・徳川斉昭の二十二男として誕生した[1][2]。母は大納言万里小路建房の娘・睦子(秋庭)。幼名は廿二麿(にじゅうにまろ)[1]、初名は昭鄰(あきちか)[3]

元治元年(1864年)2月9日、6代藩主・松平頼升の養子となる。

明治元年(1868年)、養父・頼升が病弱だったこともあり、11歳で藩政を代行した[1]。奥州の戦乱がおさまった12月16日、藩が管理を命じられた地域巡見のため、東京を発って陸奥国守山に向かった[1]

同2年(1869年)3月5日、封土を奉還した[4]。同年6月、版籍奉還で、江戸時代江戸に詰めていた守山藩主も領地に帰ることになったが、守山は政情が悪化しており、かつ住居もなかったため、常陸国松川に住むことの願いを出し、許可された[4]

藩知事

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同年8月2日、家督を相続し、守山藩知事となった[5][6]。同月24日、従五位に叙せられた[5]

同3年(1870年)3月中旬、窮民撫育のため常陸領を巡村した[7]。同年12月20日、守山藩を松川藩に改称する願いを出し、同月24日には認められ、翌明治4年(1871年)正月に新藩印が与えられた[8]。同年1月9日、藩庁などが焼失した[9]。同年3月、東京での学問修業を願い出て認められ、4月27日、東京に到着、やがて芳野金陵方へ通った[10]

同年7月14日、廃藩置県となり、松川藩は松川県と改まった[11]。翌日15日、頼之は県知事となった[11]。また、子爵となる[11]

同5年(1872年)9月、養父・頼升が41歳で死去[12]。同6年(1873年)8月11日、頼之も16歳で死去した[12][2]

家督は、会津松平家との養子縁組を解消していた実兄の松平喜徳(斉昭の十九男)が継いだ[12]

系譜

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父母

養子

脚注

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  1. ^ a b c d 大洗町史 1986, p. 538.
  2. ^ a b 大洗町史 1986, p. 394.
  3. ^ 松平頼之」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E4%B9%8Bコトバンクより2023年1月2日閲覧 
  4. ^ a b 大洗町史 1986, p. 539.
  5. ^ a b 大洗町史 1986, p. 540.
  6. ^ 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』第二(続群書類従完成会、1974年)p.262)
  7. ^ 大洗町史 1986, p. 542.
  8. ^ 大洗町史 1986, p. 544.
  9. ^ 大洗町史 1986, pp. 544–545.
  10. ^ 大洗町史 1986, pp. 546–547.
  11. ^ a b c 大洗町史 1986, p. 547.
  12. ^ a b c 大洗町史 1986, p. 548.

参考文献

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  • 大洗町史編さん委員会 編『大洗町史』大洗町〈通史編〉、1986年3月31日。NDLJP:9643950 (要登録)

外部リンク

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