松平頼胤
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松平頼胤 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文化7年12月22日(1811年1月16日) |
死没 | 明治10年(1877年)12月30日 |
改名 | 雄丸(幼名)、頼胤 |
別名 | 都太郎、貞五郎(通称)、舜民(字) |
官位 | 正四位、左近衛権中将、宮内大輔、讃岐守、玄蕃頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂 |
藩 | 讃岐高松藩主 |
氏族 | 高松松平家 |
父母 |
父:松平頼儀、母:藤木氏 養父:松平頼恕 |
兄弟 |
頼該、頼胤、頼顕、本多忠民、倫姫、 井伊直亮正室、板倉勝明正室、律姫ら |
妻 | 正室:文姫(徳川家斉の十六女) |
子 |
竹雄丸、頼温、頼和、大原重実室、衛ら 養子:頼煕、頼聰、松平頼徳正室 |
松平 頼胤(まつだいら よりたね) は、江戸時代後期の大名。讃岐高松藩10代藩主。官位は正四位・左近衛権中将、宮内大輔、讃岐守、玄蕃頭。字は舜民。
生涯
[編集]8代藩主・松平頼儀の次男として誕生した。母は藤木氏。幼名を雄丸、通称は都太郎、貞五郎。
文政元年(1818年)、松平頼恕の養嗣子となる。天保13年(1842年)、先代・頼恕の死去により家督を継ぐ。弘化元年(1844年)、幕命により若年の水戸藩主徳川慶篤の藩政を補佐した。安政4年(1857年)から翌年の将軍継嗣問題・日米修好通商条約の勅許問題においては、大老・井伊直弼につき、本藩である水戸藩を圧迫している。その後、桜田門外の変による井伊直弼暗殺もあり、文久元年(1861年)7月、蟄居を命じられたため、頼恕の四男で自身の養子の頼聰に家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)、東京に移る。明治10年(1877年)没、68歳。法諱は善得。