松平頼筠
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和元年6月13日(1801年7月23日) |
死没 | 天保10年5月17日(1839年6月27日) |
改名 | 詮之允(幼名)→頼筠 |
戒名 | 又玄院殿道誉上徳先天大居士 |
墓所 | 茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山 |
官位 | 従五位下、大炊頭、主税頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 常陸宍戸藩主 |
氏族 | 水戸徳川家支流宍戸松平家 |
父母 |
父:徳川治紀、母:八重崎 養父:松平頼敬 |
兄弟 |
栢姫、綏姫、徳川従子、徳川斉脩、 頼恕、鄰姫、規姫、苞姫、徳川斉昭、 頼筠、申之允 養兄弟:勝姫 |
妻 | 正室:金 |
子 | 養子:頼位 |
松平 頼筠(まつだいら よりかた)は、江戸時代後期の大名。常陸国宍戸藩7代藩主。官位は従五位下・大炊頭、主税頭。
生涯
[編集]宍戸藩の本家である常陸水戸藩7代藩主・徳川治紀の四男。母は中山慶次郎の娘・八重崎。幼名は詮之允。
文化4年(1807年)、先代藩主の松平頼敬(治紀の従弟にあたる)の死去により、その養嗣子となって跡を継いだ。天保10年(1839年)5月17日に死去し、跡を養嗣子の頼位(頼敬の弟)が継いだ(ただし、前日の5月16日に隠居して家督を譲っていたとも伝わる)。
法号は又玄院殿道誉上徳先天大居士。墓所は茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山。
系譜
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