松平頼謙
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦5年3月7日(1755年4月18日) |
死没 | 文化3年9月2日(1806年10月13日) |
改名 | 金十郎(幼名)、頼謙 |
戒名 | 寿徳院殿慈元盈林日忠大居士 |
墓所 | 東京都大田区の池上本門寺 |
官位 | 従四位下侍従、式部大夫、左近衛権少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 伊予西条藩主 |
氏族 | 紀伊徳川家→西条松平家 |
父母 | 徳川宗将、於安 |
兄弟 |
直松、徳川重倫、千間姫、琴姫、門之進、致姫、内藤学文、頼興、頼謙、逸姫、 忠功、従姫、三浦為脩、忠和、安藤道紀、阿部正由 |
妻 |
菊亭家 永石氏 |
子 |
頼看、本多忠顕、頼啓、鑑、於津、錫、 内藤政偏正室 |
松平 頼謙(まつだいら よりかた)は、江戸時代中期の大名。伊予西条藩6代藩主。官位は従四位下・侍従、式部大夫、左近衛権少将。
略歴
[編集]宝暦5年(1755年)3月7日、和歌山藩主・徳川宗将の六男として誕生。母は江戸幕府の御書院番を務めていた前田氏の妹・於安。幼名は金十郎。
安永4年(1775年)2月3日、和歌山藩主を継いでいた次兄の徳川重倫が隠居した。この時、重倫の子である岩千代(のちの治宝)はまだ幼少であり、代わりに叔父で先代藩主の松平頼淳(=徳川治貞)が和歌山藩主として転出することとなったため、それに伴い重倫の弟である金十郎改め頼謙が、頼淳の養嗣子という形で、同日西条松平家の家督および西条藩主を継いだ。
安永7年(1778年)、郡奉行の竹内立左衛門に命じ、加茂川や中山川の治水工事などを行なわせ禎瑞新田を開発する。寛政7年(1795年)8月7日、長男・頼看に家督を譲って隠居し、文化3年(1806年)9月2日に52歳で死去した。