松平頼英
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松平頼英 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保14年9月22日(1843年10月15日) |
死没 | 明治38年(1905年)12月3日 |
改名 | 勇之進(幼名)、頼英 |
戒名 | 徳本院殿頼英義道日慈大居士 |
墓所 | 東京都大田区の池上本門寺 |
官位 | 従四位下・左近衛権少将、侍従、正三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 伊予西条藩主 |
氏族 | 紀州徳川家支流西条松平家 |
父母 | 父:松平頼学、母:山野井氏 |
兄弟 | 靖姫、久松丸、銐丸、充千代、粒姫、悌姫、徳之丞、頼英、徳川茂承 |
妻 |
正室:阿部正備の長女・貞子 側室:奥田氏 |
子 |
鏺姫、哲丸、猪久姫、澄子、輝子 養子:頼和 |
松平 頼英(まつだいら よりひで)は、江戸時代後期の大名。伊予西条藩の第10代(最後)の藩主、のち藩知事、子爵。
生涯
[編集]天保14年(1843年)9月22日、西条藩9代藩主・松平頼学の五男(六男との説もある)として誕生した。幼名は勇之進。4人の兄や頼学の婿養子であった頼永の早世などにより世子となる。
文久2年(1862年)11月21日、父の隠居により家督を継いだ。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、親藩ながら官軍側に与している。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されて東京府へ移った。明治17年(1884年)に子爵となる。
明治38年(1905年)12月3日、死去した。享年63(満62歳没)。
栄典
[編集]系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第1351号、「叙任及辞令」1887年12月28日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (西条)松平家初代 1884年 - 1905年 |
次代 松平頼和 |