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松平頼和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松平 頼和(まつだいら よりかず、慶応元年5月7日1865年5月31日〉 - 昭和15年〈1940年7月18日)は、日本華族官吏西条松平家第11代当主。従二位勲五等子爵[1]

生涯

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讃岐高松藩第10代藩主・松平頼胤の七男として生まれる。伊予西条藩第10代藩主、のち藩知事、子爵となる松平頼英の養嗣子となる。慶應義塾を経てドイツ帝国に留学し、政治学法学経済学などを学ぶ。ドイツ南部テュービンゲンにあるテュービンゲン大学を卒業し、Dr. rer. pol.(日本の政治学博士に相当)を取得する[2]。帰朝後は宮内省に入省し、式部官、主猟官、雅楽部副長心得などを歴任した。

養父の死去により、明治38年(1905年12月16日に家督を相続する。明治41年(1908年2月22日大韓帝国より勲三等八卦章を受章する[3]大正5年(1916年3月16日高等官二等(勅任官)に陞叙するが、翌3月17日には依願免官となる[4]古希を迎えるに際し、昭和9年(1934年)2月に御紋章付銀盃および酒肴料を下賜される。

昭和15年(1940年7月18日午前3時40分、気管支肺炎のため東京府東京市麻布区広尾町14番地(現在の東京都渋谷区広尾)の自邸で死去した[5]。75歳没。家督は長男の頼庸が継いだ。

栄典

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外国

家族

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  • 妻:松平保子(侯爵徳川茂承三女、1875年10月6日 - 1950年6月12日)
    • 長男:頼庸(1894年3月10日 - 1973年2月6日)
    • 長女:信子(男爵近藤滋弥夫人)
    • 次男:広(1896年12月 - 1962年3月)
    • 三男:矯(1898年4月 - 1986年3月1日)

脚注

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  1. ^ 『官報』第4063号、1940年7月23日。
  2. ^ 華族会館[1937: 395]
  3. ^ 『官報』第7395号、1908年2月24日。
  4. ^ 『官報』第1087号、1916年3月18日。
  5. ^ 『読売新聞』1940年7月20日付夕刊、7版、2面。
  6. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  7. ^ 『官報』第7600号「叙任及辞令」1908年10月24日。

参考文献

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  • 筒井住蓮編『大日本華族大鑑』都通信社、1911年、170頁。
  • 華族会館編『華族家庭録(昭和11年12月調)』華族会館、1937年、395頁。
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター、1990年、168-169頁。


日本の爵位
先代
松平頼英
子爵
西条松平家第2代
1905年 - 1940年
次代
松平頼庸