松平頼如
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝元年10月14日(1673年11月22日) |
死没 | 宝永4年12月7日(1707年12月30日) |
改名 | 七丸(幼名)→頼之→頼如 |
別名 | 通称:外記、左兵衛 |
戒名 | 一圓院道脩日感 |
墓所 | 茨城県常陸太田市の瑞龍山 |
官位 | 従四位下、侍従、能登守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 常陸府中藩主 |
氏族 | 石岡松平家 |
父母 | 父:松平頼隆、母:妻(高橋氏) |
兄弟 | 頼方、頼寧、頼如、水谷勝美正室、兼子 |
妻 | 婚約者:細川綱利の娘 |
子 | 養子:頼明 |
松平 頼如(まつだいら よりゆき)は、江戸時代中期の大名。常陸国府中藩2代藩主。官位は従四位下・侍従、能登守。水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫で、徳川光圀の甥にあたる。
略歴
[編集]初代藩主・松平頼隆の三男。母は妻(高橋氏)。幼名は七丸。正室は熊本藩主・細川綱利の娘とされていたが、婚礼前に頼如が死去した。任官叙位前は通称に外記または左兵衛を称する。
兄の頼方と頼寧が早世したため、元禄4年(1691年)閏8月に世子として指名された。宝永2年(1705年)9月28日、父の隠居により家督を継ぐ。しかし宝永4年(1707年)12月7日、父の後を追うように35歳で死去した。嗣子がなく、松平頼福(父の同母弟松平頼泰の子)の長男頼明が跡を継いだ。
経歴
[編集]※日付=旧暦
- 1691年(元禄4年)8月、藩主松平頼隆の世継ぎとなる。12月26日、能登守に叙任。
- 1705年(宝永2年)9月28日、家督相続。常陸府中藩(茨城県石岡市)藩主を継承。12月19日、侍従兼任。
- 1707年(宝永4年)12月7日、卒去。法名は一圓院道脩日感。墓所は茨城県常陸太田市瑞竜町の瑞龍山。
系譜
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