松平頼雄 (宍戸藩主)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永7年9月11日(1630年10月16日) |
死没 | 元禄10年5月14日(1697年7月2日) |
改名 | 藤吉郎(幼名)→頼雄 |
別名 | 通称:豊後→一学 |
戒名 | 一法院殿融山円公大居士 |
墓所 | 茨城県常陸太田市の瑞龍山 |
官位 | 従五位下、大炊頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 常陸宍戸藩主 |
氏族 | 水戸徳川家支流宍戸松平家 |
父母 | 父:徳川頼房、母:勝 |
兄弟 |
頼重、通子、亀丸、万、棄、大姫、 徳川光圀、菊、小良、頼元、頼隆、 頼利、頼雄、頼泰、頼以、利津、房時、布里、雑賀重義、犬、千、竹、梅、市、松、那阿 養兄弟:虎 |
子 | 養子:頼道 |
松平 頼雄(まつだいら よりお[1])は、江戸時代前期の大名。常陸国宍戸藩藩主。官位は従五位下・大炊頭。
生涯
[編集]常陸水戸藩主・徳川頼房の七男として水戸で誕生した。幼名は藤吉郎。母は佐々木政勝の娘勝。天和2年(1682年)、次兄光圀から常陸宍戸1万石を分与されて立藩した。
元禄10年(1697年)5月14日、68歳で死去した。五兄・頼利の子で養嗣子の頼道が相続した。
法号は一法院殿融山円公大居士。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山。
脚注
[編集]- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus、松平頼雄の項、コトバンク(2023年2月28日閲覧)