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秋田俊季

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
秋田 俊季
時代 江戸時代前期
生誕 慶長3年(1598年
死没 慶安2年1月3日1649年2月14日
改名 東太郎、俊季
別名 安東太郎
戒名 真如院殿実岩常固大居士
墓所 福島県田村郡三春町荒町の高乾院
官位 従五位下伊豆守河内守
幕府 江戸幕府
常陸国宍戸藩藩主→陸奥国三春藩藩主
氏族 秋田氏
父母 父:秋田実季、母:円光院細川昭元の娘)
兄弟 俊季季次季信季長季則、女子(荒木高綱妻)、女子
正室:永寿院松平信吉の娘)
盛季季久、娘(新庄直長妻)、娘(植村忠朝妻)
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秋田 俊季(あきた としすえ)は、江戸時代前期の大名常陸国宍戸藩藩主、のち陸奥国三春藩藩主。秋田家第3代当主。安東太郎[1]

生涯

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慶長3年(1598年)、秋田実季の子として山城国で生まれる[2][1]。母は、細川昭元の娘・円光院[2]。幼名は東太郎[3]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、父・実季と共に出陣した[3][1]元和元年(1615年)4月26日、従五位下伊豆守に叙任された[1]。同年5月の大坂夏の陣では、天王寺口の攻撃に加わった[3]天王寺・岡山の戦い)。

元和2年(1616年)7月、日光山普請手伝いを務める[4]。同3年(1617年)、徳川秀忠上洛する際、供奉した[4]。同4年(1618年)4月、秀忠が日光山に詣でた際、これに従った[4]

元和5年(1619年)4月2日、河内守となる[4][3]。この頃から実季と不仲になる[3]

寛永8年(1631年)、実季は領地を没収され、伊勢国朝熊に蟄居させられた[2]。同年、この後を継ぐ[4]正保2年(1645年)8月、5000石を加増され、陸奥国三春5万5000石に転封となる[2]

慶安2年(1649年)1月3日、勤番中の大坂城内で病死した[2][3]。52歳[2]。法号は真如院殿実岩常固大居士、墓は高乾院(荒町)にある[2]

長男の盛季が跡を継いだ[4]

系譜

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○出典:『寛政重修諸家譜[5]

父母

兄弟

  • 秋田俊季
  • 秋田季次 - 次郎九郎、長門守従五位下
  • 秋田季信 - 大蔵、隼人正。
  • 秋田季長 - はじめ季安。三平。
  • 秋田季則 - はじめ季満。帯刀。
  • 女子 - 家臣・荒木金右衛門高綱の妻
  • 女子

正室

子女

略系図

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徳川家光、豊臣秀頼は又従兄弟にあたる[6]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
細川昭元
 
お犬の方お市の方織田信長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秋田実季
 
円光院於江与
 
徳川秀忠淀殿
 
豊臣秀吉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秋田俊季徳川家光豊臣秀頼

脚注

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  1. ^ a b c d 寛政譜 1923, p. 334.
  2. ^ a b c d e f g 三春藩主秋田氏1 三春藩初代藩主・秋田俊季”. 三春町歴史民俗資料館 (2012年2月23日). 2024年11月9日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 浪岡町史編纂委員会 1988, p. 32.
  4. ^ a b c d e f 寛政譜 1923, p. 335.
  5. ^ 寛政譜 1923, pp. 334–335.
  6. ^ 高乾院”. Find!三春. 三春まちづくり公社 (2017年5月16日). 2024年11月9日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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先代
秋田実季
秋田氏第3代当主
1631年 - 1649年
次代
秋田盛季