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徳川宗堯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
徳川 宗堯
時代 江戸時代中期
生誕 宝永2年7月11日1705年8月29日
死没 享保15年4月7日1730年5月23日
改名 松平軽麻呂→徳川鶴千代→宗尭
諡号 成公
戒名 俊德院殿光蓬社照譽大廣
墓所 瑞竜山
官位 従四位上左衛門督正四位下左近衛権少将従三位左近衛権中将参議
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
常陸水戸藩
氏族 高松松平家水戸徳川家
父母 父:松平頼豊、母:喜智(西御部屋)
養父:徳川綱條
兄弟 宗堯松平頼治ほか
御簾中美代姫
側室:礼武
松平頼順宗翰
養子:定姫
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徳川 宗堯(とくがわ むねたか、旧字体德川 宗堯)は、江戸時代中期の大名常陸水戸藩4代藩主。官位従三位左近衛権中将参議

生涯

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宝永2年(1705年7月11日高松藩主・松平頼豊の嫡男として誕生。母は湯浅方淑の娘・喜智(西御部屋)。幼名は軽麻呂正徳元年(1711年11月、大伯父である水戸藩主・徳川綱條の養嗣子となり、鶴千代と改める。

享保元年(1716年)、将軍・徳川吉宗から偏諱を賜り宗堯と名乗る。少年時代から英邁で知られており、享保3年(1718年)に綱條が亡くなると家督を継いだ。自ら朝夕の食事を一汁三菜とし、倹約に努めて行き詰まっていた藩政を立て直そうとしたが、享保15年(1730年4月7日に死去した。享年26(満24歳没)。

綱條の嫡子徳川吉孚の一人娘美代姫御簾中とし、美代姫との間にもうけた次男宗翰が家督を継いだ。

有能で文化人としても優れていたため、徳川光圀の再来と讃えられた。著書に「成公文集」がある。

逸話

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「水戸紀年」には、宗堯が死去する際、附家老中山信昌が来て、鶴千代(宗翰)を御簾中・美代姫に抱き取らせ、「自分が再び来るまでは、何も食べさせてはならず、誰の手にも渡してはならない」と話したという逸話が載っている。

風聞によれば、高松藩より養子入りした宗堯は、生母喜智を讃岐国から呼び寄せ、小石川邸内に新御殿を建てて住まわせた。この新御殿に仕える元・高松藩士岡島弥兵衛の娘礼武が宗堯の目に留まり、側室となって長男・軽麻呂(頼順)を産んだ。嫡子かと浮き立っていたところ、翌年に美代姫が鶴千代(宗翰)を産んだので、こちらが嫡子となった。新御殿から鶴千代宛てに饅頭が贈られ、それを美代姫の部屋に来ていた宗堯が口に入れたところ、宗堯は腹痛を訴えて程なく急死したという[1]

官歴

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※日付=旧暦

系譜

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脚注

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  1. ^ 「水戸徳川家と幕末の烈公」p162 - 164

演じた俳優

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