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芳野金陵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

芳野 金陵(よしの きんりょう、享和2年12月20日1803年1月13日[1] - 明治11年(1878年8月5日[1])は、江戸時代後期の儒者。名は成育[1]。字は叔果[1]。通称愿次郎[1]、立蔵。号は金陵[1]、匏宇。

生涯

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下総国葛飾郡松ケ崎村(現:千葉県柏市)の儒医の次男として、小文間村(現:茨城県取手市)にある母の実家で生まれる[1][2]。14歳で上京して父に句読を学び[1]、一度は郷里に帰るも[1]、22歳の時に亀田綾瀬に師事する[1]文政9年(1826年)から浅草福井町(現:東京都台東区浅草橋1・2丁目)に私塾逢原堂を開く[1]。その門人帳「執贄録」「登門録」に記載された幕末の入門者は、1400人に上った[3]。一方、天保年間に3度の火災に遭い、生活は困窮した[1]

弘化4年(1847年)8月に駿河田中藩主・本多正寛の招聘に応じ、儒員となる[1]ペリー来航に際し、老中久世広周に国防策を建議し[1]、以後は諮問を受ける[1]。また藩財政の改革と文教の刷新に努める。文久2年(1862年)桜田門外の変によって実権を握った松平春嶽と親しかったことから[1]、同年12月に幕府に召され御儒者となる[1]昌平黌の学制改革を建議したが、これは実現に至らなかった。

明治元年(1868年)12月、新政府の要請で昌平学校(のち大学)二等教授となり、翌年7月に大学少博士、10月には中博士となったが、明治3年(1870年)の同校廃止により免官。その後、新暦1873年(明治6年)に大塚(小石川窪町)の旧守山藩邸(水戸支藩)33,000坪余を1,600両で購入、翌年8月には大塚に転居し、人夫を雇って開墾に従事、私塾を開きながら余生を送った[4]。77歳没。1924年大正13年)、従五位を追贈された[5]

墓は千葉県柏市松ケ崎の覚王寺と東京都台東区谷中天王寺の墓地にある。

当時の儒者の中では、安井息軒藤田東湖と親しく、門弟に小澤酔園・近藤南洲・信夫恕軒がいる。

家族

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  • 長女・菅子(1837-1915):福井藩奥向きに仕え、松平慶永付「年寄」となった。
  • 三男・桜陰(1844-72):出奔して天狗党の乱に参加。
  • 四男・世経(1849-1927):私立逢原学校を開校する傍ら、東京府会議員、衆議院議員、東京市会議員などを歴任[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第6巻』岩波書店、1985年2月、161頁。 
  2. ^ 金陵遺稿. 3,4(国立国会図書館デジタルコレクション)コマ番号148/160
  3. ^ 『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』p.38
  4. ^ 『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』p.36-42
  5. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.52
  6. ^ 『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』p.44

著作

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参考文献

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  • 渡辺政輿『金陵先生行実』(『金陵遺稿』10[要文献特定詳細情報]
  • 松下忠『江戸時代の詩風詩論』明治書院、1969年
  • 亀山聿三・編『芳野金陵先生碑文集』夢硯堂、1972年
  • 二松学舎大学・柏市教育委員会共催『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』二松学舎大学附属図書館、2015年10月。