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信夫恕軒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しのぶ じょけん

信夫 恕軒
生誕 1835年5月31日
江戸芝金杉(現・東京都港区
死没 1910年12月11日
東京府東京市小石川区小日向武島町
(現・東京都文京区水道
職業 漢学者
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信夫 恕軒(しのぶ じょけん、天保6年5月5日1835年5月31日) - 明治43年(1910年12月11日)は、日本漢学者東京大学講師。名は粲(あきら)[1]、字は文則。号は恕軒、天倪(てんげい)。

国際法学者の信夫淳平の父。信夫韓一郎(新聞記者、元朝日新聞専務)、信夫清三郎(政治学者、名古屋大名誉教授)の祖父。

経歴

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鳥取藩医・信夫正淳の子[1]江戸芝金杉(現東京都港区)の藩邸に生まれる[1]。信夫家は代々因州鳥取池田藩の侍医だった[2]。兄尚貞[3]藩医として五人扶持三十俵をうけていた[4]

二歳のときに父を亡くす[2]。家庭生活には恵まれず、衣食も欠乏するほどであったが、幼少のころから学問を好み作文に長じ、飢えや寒さにひるむことなく学業にはげんだ[2]海保漁村芳野金陵大槻磐渓に就いて経史、文辞を修めた[4]

医術を誰に学んだかわからないが、学成って初め下野の真岡(栃木県真岡市)に流寓し、北総を経て平塚村(茨城県結城郡)に寄寓しており、その頃が恕軒の三十才前後だと言われている[4]

明治になって東京の江東本所(現墨田区)で奇文欣賞堂という塾を開いて、漢学を教えた[1]

東京大学より招かれて講師となる。その後、三重県立中学校教官、和歌山県の中学校教官を経て東京に戻り、小石川武島町(現文京区)に住んだ[1]明治43年(1910年)12月11日、中風のため小石川区小日向武島町の自宅で死去[5][6]。東京・谷中霊園に葬られる。

人物像

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性格は偏狭で短気であった[1]

毀誉褒貶の多い人だけに友人は少なく、終生の友として成島柳北の名があげられる[4]

才気横溢かつ雄弁であり、赤穂浪士の講話を得意とし、「赤穂にいた時に、前原宗房がやかんのお湯を頭からかぶって火傷した」「吉良邸を探索中の岡野包秀が、泥棒と思われ町人たちから袋叩きにされた」など臨場感に満ち、聴衆の中には泣き出すものがいるくらいであった。

但し、彼の「義士実談」の中には、赤穂義士に助勢加勢するものは皆無であった[7]奥田重盛が切腹の作法を知らなかった、介錯に失敗し二度斬りされた武林隆重が大声を出した、流罪になった赤穂義士の遺児らが、や苫を造る労働をさせられた[8]等とも記され、いわゆる英雄伝説を否定し、義士美化を批判した内容も多分にある[9]

人となりは傲岸、「よく人を罵る」と師の一人である羽倉簡堂に評されている。友人だった依田学海は「気性が磊落で飾るところがない」と評する。

著書

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史料

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  • 信夫恕軒 - 自撰墓碑銘
は文則、は恕軒、晩に天倪(てんげい)と更(あらた)む[11]信夫、世々因幡守池田候に仕ふ[11]。其の家世を詳(つまびら)かにせず[11]
天保六年某月某日、江戸邸に生る[11]。二才にして怙恃(こじ)[12]を喪(うしな)ひ又雁行(がんこう)無し[13][11]。幼にして学を好み、作文に長ず[11]。狷直(けんちょく)[14]にして世に容(い)れられず[11]明治中興、三たび仕へて三たび罷(や)め、家処して[15]教授す[11]。一世知己(ちき)に遇はず[11]。千載豈(あ)に不朽を保たんや[11]。然れども、其の守節に至りては、不屈なり[16]。則ち諸(これ)を鬼神に質(ただ)すとも疑はざるなり[16]。乃ち石を買いて自ら碑して日く[16]
貌(かほ)は陋(ろう)にして性は介[17][16]。屯如たり邅如たり[18][16]。世の清議を犯し[19]、郷曲[20]の誉を欠く[16]。寸心千古、白(むなし)く蠧魚(とぎょ)を看る[16]
人用ひずと雖も、天其れ諸(これ)を舎(す)てんや[16]。窮まり愁へて以て死す[16]。噫(ああ)、命なるかな[16]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『鳥取県大百科事典』407頁
  2. ^ a b c 『新聞人 信夫韓一郎』6頁
  3. ^ 自撰碑文に「雁行なし」とあって兄弟はないとされているが、漢学者伝記集成には尚貞の弟となっていて詳かでない(『因伯杏林碑誌集釈』213頁)
  4. ^ a b c d 森納著『因伯の医師たち』 361頁
  5. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)14頁
  6. ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.339
  7. ^ 『赤穂誠忠録』244p
  8. ^ 『赤穂誠忠録』407p
  9. ^ 松島栄一『忠臣蔵』214p(岩波書店)
  10. ^ 『赤穂誠忠録』425p
  11. ^ a b c d e f g h i j 『因伯杏林碑誌集釈』211頁
  12. ^ 怙恃=ともにたよる、あてにするの意で、怙は父を、恃は母を言う(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)
  13. ^ 順序正しく飛ぶのことより、兄弟をたとえる(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)
  14. ^ 短気でまっすぐな気性(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)
  15. ^ 外に出て勤めず、家にいて(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)
  16. ^ a b c d e f g h i j 『因伯杏林碑誌集釈』212頁
  17. ^ 狷介であること。妥協することのない性格(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)
  18. ^ 行きなやむさま(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)
  19. ^ 世俗を忘れた清らかな議論。主として老荘の議論を言う(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)
  20. ^ 郷曲=故郷(『因伯杏林碑誌集釈』212頁)

参考文献

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  • 森銑三『落葉籠 上』(中公文庫、2009年) ISBN 978-4-12-205155-3
  • 森銑三『新編 明治人物夜話』(岩波文庫、2001年) ISBN 978-4-00-311533-6
  • 森銑三『史伝閑歩』(中公文庫、1989年) ISBN 978-4-12-201582-1
  • 森納、安藤文雄『因伯杏林碑誌集釈』1983年、211-213頁
  • 『鳥取県大百科事典』(編集・新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会)1984年 407頁