芳野菅子
芳野 菅子(よしの すげこ、天保8年2月4日(1837年3月10日) - 大正4年(1915年)2月4日)[1]は、江戸時代幕末期から明治期の女性。福井藩奥女中(年寄)。歌人。明治期には、漢学塾逢原堂(のちに私立逢原学校)の分校として裁縫学校を開設し、女子教育に尽力した。
生涯
[編集]天保8年(1837年)江戸日本橋生まれ。父は儒学者・芳野金陵、母はつな(1810-1902)。幼名はみさ、すげ。幼い頃から父に学び、和歌は間宮八十子に師事し、のちに福井城下で橘曙覧に学んだ。
嘉永5年(1852年)6月に福井藩奥女中として出仕し、三の間・呉服の間勤めののち、松平慶永や勇姫から篤い信任をえて、安政6年(1859年)2月祐筆。元治元年(1864年)6月若年寄、さらに慶応2年(1866年)6月には、福井藩大奥の筆頭「年寄」となった[2]。出仕当初の名は「くま」、その後「もせ」「そて」、若年寄格となった元治元年(1864年)6月から「八十瀬」を称した[3]。
政界に復帰した春嶽が政事総裁職として手掛けた参勤交代制の緩和によって、文久3年(1863年)3月、菅子は正室の勇姫に従って福井城下に到着した。橘曙覧が菅子と菅子を中心とする福井藩奥女中らに宛てた書簡は40通近くにおよび、その著作が奥向きで広く読まれ、歌の指導や贈答など交流のようすが浮かび上がる[4]。
明治4年(1871年)2月には、暇を下されて松平家を離れ[5]、まもなく飯野吉兵衛と結婚し、のぶを産むがほどなく離婚。その後生家にもどり、明治9年(1876年)11月には、父と弟世経が営む漢学塾逢原堂(のちに私学逢原学校)の分校として、日本橋本石町に裁縫学校を開設[6]し、33年間にわたって女子教育にあたった。
晩年、娘のぶの嫁ぎ先小出伊勢治方に居住したため、小出菅子と称されることもある。
著書
[編集]- 『常磐廼古事』福井市春嶽公記念文庫、福井市立郷土歴史博物館蔵[7]。
- 芳野菅子著、島崎圭一編『芳野菅子歌集』1931年。肖像写真あり。
参考文献
[編集]- 日外アソシエーツ株式会社編『明治大正人物事典』2 文学・芸術・学術編、2011年。
- 足立尚計「橘曙覧と芳野菅子」仁愛女子短期大学国文学科郷土文学研究センター報『風花』5、2000年3月。
- 内田好美「橘曙覧と福井藩奥女中との交流―芳野菅子宛書簡を中心に―」『福井県史研究会会報』7、2014年2月。
- 二松学舎大学・柏市教育委員会共催『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』二松学舎大学附属図書館、2015年10月。
- 「小出文書」53件、国文学研究資料館(越前史料)、福井県文書館に複製本があり。小出文書目録(福井県文書館)
脚注
[編集]- ^ 生没年月日および出生地は、『明治大正人物事典』2による。
- ^ 「大奥女中分限帳」松平文庫、福井県文書館保管。なお福井藩では、藩邸の奥向を幕府と同様に「大奥」と呼んでいた。「年寄」は2、3人で務めた大奥の筆頭奥女中で、大奥の事務会計を取り仕切る広敷用人や藩主等の側向頭取、家老と用談し、奥女中たちを取り仕切った。鈴木準道著、舟澤茂樹校訂『福井藩士事典』1977年、p.37。
- ^ 「小出文書20」、国文学研究資料館(越前史料)、『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』p.45。
- ^ 内田好美「橘曙覧と福井藩奥女中との交流」による。
- ^ 「小出文書20」(国文学研究資料館(越前史料)には「今般御改正ニ付永々御暇被下候事」とある。
- ^ 「小出文書20」(「常磐の古事」草稿1)によれば、松平慶永(春嶽)筆の「雪彩蛍光」と父金陵の「学半書舎」の額が掲げてられていたという。『企画展 芳野金陵と幕末日本の儒学』p.6・45。この裁縫学校「逢原堂分校」関係資料が残存している。
- ^ 翻刻には、佐々木佳美「翻刻『常磐廼古事』」(『福井市立郷土歴史博物館研究紀要』20、2015年3月)がある。なおこの翻刻は本文のみで、あとがきは含まれない。