間宮八十子
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間宮 八十子 | |
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誕生 |
文政6年6月20日(1823年7月27日) 武蔵国江戸小石川水戸藩邸 |
死没 | 明治24年(1891年)2月17日 |
墓地 | 台東区谷中玉林寺 |
職業 | 歌人 |
言語 | 中古日本語 |
国籍 | 日本 |
ジャンル | 和歌 |
代表作 | 『松のしづえ』 |
配偶者 | 間宮永好 |
ウィキポータル 文学 |
間宮 八十子(まみや やそこ)は、江戸時代後期から明治時代の歌人。国学者間宮永好の妻。水戸藩主徳川斉昭に出仕し、諸大名の妻女に和歌を講じた。
生涯
[編集]文政6年(1823年)6月20日、江戸小石川水戸藩邸に久米博高の次女として生まれた[1]。天保10年(1839年)[2]久米野の名で徳川斉昭に出仕し、「我が家の紫式部」として寵愛を受け[1]、後の南部利剛室明子を教育した[3]。
嘉永4年(1851年)[4]母の病死により退職し[1]、嘉永5年(1851年)藩命により間宮永好と結婚し[5]、国学を学んで勅撰和歌集、『万葉集』、『源氏物語』に通じ、諸大名家の妻女や一般人に講じた[1]。特に松平春嶽、明子の弟池田慶徳と親しく[6]、英照皇太后宮、昭憲皇后宮にも召されて歌を詠み、宮中出仕の声もかかったが、老齢のため断った[1]。
明治23年(1890年)秋から病気がちとなり、明治24年(1891年)1月中風を発症し、2月17日朝7時に死去した[1]。翌日谷中玉林寺夫永好墓の傍らに葬られた[1]。法号は永楽院奇音妙歌大姉[7]。
著書
[編集]和歌
[編集]- 「あふひ草かけてそおもふむつましくむかへるたつの千代の行末」 - 松姫君の御婚礼に[11]
- 「いく薬いつのいて湯の旅おろも千代のよはひをつとにせよ君」 - 南部四位とのゝ姫君を引ぐして伊豆の湯に立出給ふに[12]
- 「夢にたにのほるへしとはおもひきや身はしもなから雲のうへまて」 - はしめて皇后宮の御前にめされける時[13]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 久米 1891.
- ^ 山田 2009, p. 21.
- ^ 山田 2009, p. 22.
- ^ a b c 山田 2009, p. 9.
- ^ 中澤 2008, p. 19.
- ^ 山田 2009, p. 23.
- ^ a b 山田 2009, p. 35.
- ^ a b 山田 2009, p. 10.
- ^ “和歌玉石集”. 日本古典籍総合目録データベース. 2017年9月19日閲覧。
- ^ “古ろもて日記”. 日本古典籍総合目録データベース. 2017年9月19日閲覧。
- ^ 山田 2009, p. 24.
- ^ 山田 2009, p. 25.
- ^ 久米 1891, pp. 扉, 67.
- ^ 山田 2009, p. 15.
- ^ 中澤 2008, pp. 2–3.
参考文献
[編集]- 久米博高「間宮八十子伝」『松のしづえ』稽照館、1891年。NDLJP:874143/132
- 中澤伸弘「徳川時代後期江戸歌人国学者間宮永好の基礎研究」『國學院大學近世文学会会報』第14号、國學院大學近世文学会、2008年3月。
- 山田洋嗣「間宮永好、八十子と南部利剛、明子と : 挿話として」『福岡大学人文論叢』第41巻第2号、福岡大学研究推進部、2009年9月、CRID 1050001202555069824。