間宮永好
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化2年(1805年) |
死没 | 明治5年1月3日(1872年2月11日) |
改名 | 間宮 |
別名 | 通称:才輔、又左衛門、字:叔芳、号:松屋、喚犬喚鶏之舎[1] |
戒名 | 永選院奇徳有道居士[2] |
墓所 | 台東区谷中玉林寺 |
官位 | 従七位 |
主君 | 徳川斉昭 |
藩 | 水戸藩 |
氏族 | 源姓間宮氏 |
父母 | 渡辺義礼 |
兄弟 | 渡辺清蔵 |
妻 | 間宮八十子 |
子 | 間宮尚中 |
間宮 永好(まみや ながよし)は、江戸時代後期から明治初期の国学者、歌人。小山田与清門下。水戸藩士、神祇大史。
生涯
[編集]文化2年(1805年)江戸神田に生まれ、江戸・水戸に住んだ[2]。小山田与清に国学を学び、天保年間水戸藩倭書局に入り、与清等と『八洲文藻』を編集した[1]。
明治2年(1869年)8月伊能穎則の推挙で神祇権大史、明治3年(1870年)2月大史、従七位となり、同年10月から明治4年(1871年)2月まで京都に勤めた[1]。5月文部省に転じ、明治5年(1872年)1月3日68歳で病没した[1]。墓所は谷中玉林寺参道左側本堂前[1]。
なお、同じ小山田与清門下に神田佐柄木町在住の津田氏家臣間宮一郎(名は升芳、号は拙斎)がいるが、同一人物か不明である[2]。
著書
[編集]- 『日本紀竟宴歌』 - 熊本妙本寺旧蔵・水戸藩所蔵宗尊親王自筆本の与清写本を校正したもの[1]。
- 『万葉長歌部類(万葉長歌分類)』 - 天保9年(1838年)成立[1]。
- 『和歌色葉集』[1]
- 『松屋随筆』[1]
- 『箱根温泉志』 - 安政5年(1858年)5月箱根の福住正兄を訪れた時の著書。明治21年(1888年)正兄により『箱根七湯志』[3]として刊行[1]。
- 『掌中年中行事』[4] - 嘉永7年(1854年)2月刊[1]。
- 『掌中年中行事拾遺』[1]
- 『古今年中行事歌集』[1]
- 『万葉地名抄』[1]
- 『今古読法』[1]
- 『今古仮名遣』[1]
- 『参考歳時記』[1]
- 『古今集新柱』[1]
- 『百人一首新注』[1]
- 『品さだめ注』 - 『源氏物語』帚木巻中、雨夜の定めの場面の諸注を検討する[1]。
- 『行子の僧の集』[1]
- 『編年菅公伝』[1]
- 『神野山日記』 - 嘉永7年(1854年)3月妻八十子と上総国周淮郡神野寺に参詣した日記[1]。『房総叢書』第8巻所収[5]。
- 『万葉集類語』[1]
- 『自讃歌集』[1]
- 『八代集類語』[1]
- 『松蔭集』 - 与清門下の歌集[1]。
- 『職原抄新注』 - 与清の注釈本を引き継いで注釈したもの[1]。
- 『八雲のしをり』 - 歌学の案内書。『日本歌学大系』第9所収[1]。
- 『詠草』[1]
- 『仮名考に書き添ふる条々』[1]
- 『詔詞解索引』 - 本居宣長『続日本紀歴朝詔詞解』のいろは順索引[1]。
- 『春の山路(春の山踏[2])』[6] - 嘉永2年(1849年)成立[1]。
- 『松屋七九詠草』 - 慶応3年(1867年)成立[1]。
- 『間宮永好稿本』[1]
- 『万葉集略解補正』[1]
- 『犬鶏随筆』 - 『歌文珍書保存会叢書』第9巻、『続日本随筆大成』第11巻所収[1]。
- 『書紀雑考』 - 『歌文珍書保存会叢書』第11巻所収[1]。
- 『古学道統図』[7] - 国学者学統図。板元不明となっていたものを補正、再刊したもの[1]。
- 『喚犬喚鶏之舎日次記』[8] - 安政6年(1859年)から文久3年(1863年)までの日記[2]。
- 『楽章』[1]
- 『ころもで日記』[9][1]
- 『永好歌集』[10][1]
- 『草津日記』[1]
- 『喚犬喚鶏之舎文集抜書』[1]
- 『歌集・短歌』 - 慶応2年(1866年)6月浄書[1]。
- 『松屋歌集』 - 明治17年(1884年)間宮資朗刊[1]。
- 『万葉集類林』[11][2]
- 『語林類葉』[12][2]
- 『筥荷日記』[13][2]
- 『後筥根日記』[14][2]
著作の多くは火災で焼失したが[1]、一部は南部利剛室明子を通じて盛岡市中央公民館に伝わっている[2]。
門人
[編集]親族
[編集]- 父:渡辺義礼 – 旧姓は間宮。津田日向守家臣渡辺氏養子[1]。
- 母:渡辺氏[1]。
- 弟:渡辺清蔵[1]
- 第一妻:大西氏[1]
- 第二妻:増子 - 白浜氏[1]。嘉永3年(1850年)8月7日没[1]。
- 第三妻:八十子 – 弘道館教職久米博高次女。水戸藩徳川斉昭に出仕し、後の南部利剛室明子を教育した[2]。
- 甥:久米幹文 – 文政11年(1828年)11月20日生、 明治27年(1894年)11月10日没[1]。歌人・国学者。東大講師。一高教授。(東大古典科の教え子・佐佐木信綱『明治大正昭和の人々』20頁参照。)
この他、安政6年(1859年)娘とく又は豊を南部家に出仕させている[2]。墓域には小菅子(明治6年(1873年)12月17日没)、間宮資朗(明治20年(1887年)9月2日没)の名も見えるが、関係性は不明[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg 中澤 2008.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 山田洋嗣 2009.
- ^ NDLJP:764352
- ^ 掌中年中行事
- ^ NDLJP:1038190/222
- ^ 春の山踏
- ^ 古学道統図
- ^ 喚犬喚鶏之舎日次記
- ^ 居呂茂天日記
- ^ 永好歌集
- ^ 万葉集類林
- ^ 語林類葉
- ^ 筥荷日記
- ^ 後筥根日記
参考文献
[編集]- 中澤伸弘「徳川時代後期江戸歌人国学者間宮永好の基礎研究」『國學院大學近世文学会会報』第14号、國學院大學近世文学会、2008年3月、CRID 1520009407278910336。
- 山田洋嗣「間宮永好、八十子と南部利剛、明子と : 挿話として」『福岡大学人文論叢』第41巻第2号、福岡大学研究推進部、2009年9月、985-1027頁、CRID 1050001202555069824、ISSN 0285-2764。
- 中根粛治編『慶長以来諸家著述目録:和学家之部』青山堂支店、1893年(関隆治編『國学者著述綜覧』森北書店、1943年、178p頁。)