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間宮永好

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
間宮 永好
時代 江戸時代後期
生誕 文化2年(1805年
死没 明治5年1月3日1872年2月11日
改名 間宮
別名 通称:才輔、又左衛門、字:叔芳、号:松屋、喚犬喚鶏之舎[1]
戒名 永選院奇徳有道居士[2]
墓所 台東区谷中玉林寺
官位 従七位
主君 徳川斉昭
水戸藩
氏族 間宮氏
父母 渡辺義礼
兄弟 渡辺清蔵
間宮八十子
間宮尚中
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間宮 永好(まみや ながよし)は、江戸時代後期から明治初期の国学者、歌人。小山田与清門下。水戸藩士、神祇大史。

生涯

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間宮永好の墓(玉林寺)

文化2年(1805年)江戸神田に生まれ、江戸・水戸に住んだ[2]小山田与清国学を学び、天保年間水戸藩倭書局に入り、与清等と『八洲文藻』を編集した[1]

明治2年(1869年)8月伊能穎則の推挙で神祇権大史、明治3年(1870年)2月大史、従七位となり、同年10月から明治4年(1871年)2月まで京都に勤めた[1]。5月文部省に転じ、明治5年(1872年)1月3日68歳で病没した[1]。墓所は谷中玉林寺参道左側本堂前[1]

なお、同じ小山田与清門下に神田佐柄木町在住の津田氏家臣間宮一郎(名は升芳、号は拙斎)がいるが、同一人物か不明である[2]

著書

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  • 日本紀竟宴歌』 - 熊本妙本寺旧蔵・水戸藩所蔵宗尊親王自筆本の与清写本を校正したもの[1]
  • 万葉長歌部類(万葉長歌分類)』 - 天保9年(1838年)成立[1]
  • 『和歌色葉集』[1]
  • 『松屋随筆』[1]
  • 箱根温泉志』 - 安政5年(1858年)5月箱根の福住正兄を訪れた時の著書。明治21年(1888年)正兄により『箱根七湯志』[3]として刊行[1]
  • 『掌中年中行事』[4] - 嘉永7年(1854年)2月刊[1]
  • 『掌中年中行事拾遺』[1]
  • 『古今年中行事歌集』[1]
  • 万葉地名抄』[1]
  • 『今古読法』[1]
  • 『今古仮名遣』[1]
  • 『参考歳時記』[1]
  • 古今集新柱』[1]
  • 百人一首新注』[1]
  • 『品さだめ注』 - 『源氏物語帚木巻中、雨夜の定めの場面の諸注を検討する[1]
  • 『行子の僧の集』[1]
  • 『編年菅公伝』[1]
  • 神野山日記』 - 嘉永7年(1854年)3月妻八十子と上総国周淮郡神野寺に参詣した日記[1]。『房総叢書』第8巻所収[5]
  • 『万葉集類語』[1]
  • 『自讃歌集』[1]
  • 八代集類語』[1]
  • 『松蔭集』 - 与清門下の歌集[1]
  • 職原抄新注』 - 与清の注釈本を引き継いで注釈したもの[1]
  • 『八雲のしをり』 - 歌学の案内書。『日本歌学大系』第9所収[1]
  • 『詠草』[1]
  • 『仮名考に書き添ふる条々』[1]
  • 『詔詞解索引』 - 本居宣長続日本紀歴朝詔詞解』のいろは順索引[1]
  • 『春の山路(春の山踏[2])』[6] - 嘉永2年(1849年)成立[1]
  • 『松屋七九詠草』 - 慶応3年(1867年)成立[1]
  • 『間宮永好稿本』[1]
  • 『万葉集略解補正』[1]
  • 『犬鶏随筆』 - 『歌文珍書保存会叢書』第9巻、『続日本随筆大成』第11巻所収[1]
  • 『書紀雑考』 - 『歌文珍書保存会叢書』第11巻所収[1]
  • 『古学道統図』[7] - 国学者学統図。板元不明となっていたものを補正、再刊したもの[1]
  • 『喚犬喚鶏之舎日次記』[8] - 安政6年(1859年)から文久3年(1863年)までの日記[2]
  • 『楽章』[1]
  • 『ころもで日記』[9][1]
  • 『永好歌集』[10][1]
  • 草津日記』[1]
  • 『喚犬喚鶏之舎文集抜書』[1]
  • 『歌集・短歌』 - 慶応2年(1866年)6月浄書[1]
  • 『松屋歌集』 - 明治17年(1884年)間宮資朗刊[1]
  • 『万葉集類林』[11][2]
  • 『語林類葉』[12][2]
  • 『筥荷日記』[13][2]
  • 『後筥根日記』[14][2]

著作の多くは火災で焼失したが[1]、一部は南部利剛室明子を通じて盛岡市中央公民館に伝わっている[2]

門人

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親族

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  • 父:渡辺義礼 – 旧姓は間宮。津田日向守家臣渡辺氏養子[1]
  • 母:渡辺氏[1]
    • 弟:渡辺清蔵[1]
  • 第一妻:大西氏[1]
    • 子 – 夭逝[1]
    • 娘:大西氏養女[1]
  • 第二妻:増子 - 白浜氏[1]嘉永3年(1850年)8月7日没[1]
    • 子:久好 – 慶応3年(1867年)3月9日夭折[1]
    • 娘:佐登 – 鈴木好輔に嫁いだ[1]
  • 第三妻:八十子弘道館教職久米博高次女。水戸藩徳川斉昭に出仕し、後の南部利剛室明子を教育した[2]
  • 甥:久米幹文 – 文政11年(1828年)11月20日生、 明治27年(1894年)11月10日没[1]。歌人・国学者。東大講師。一高教授。(東大古典科の教え子・佐佐木信綱『明治大正昭和の人々』20頁参照。)

この他、安政6年(1859年)娘とく又は豊を南部家に出仕させている[2]。墓域には小菅子(明治6年(1873年)12月17日没)、間宮資朗(明治20年(1887年)9月2日没)の名も見えるが、関係性は不明[1]

脚注

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参考文献

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  • 中澤伸弘「徳川時代後期江戸歌人国学者間宮永好の基礎研究」『國學院大學近世文学会会報』第14号、國學院大學近世文学会、2008年3月、CRID 1520009407278910336 
  • 山田洋嗣「間宮永好、八十子と南部利剛、明子と : 挿話として」『福岡大学人文論叢』第41巻第2号、福岡大学研究推進部、2009年9月、985-1027頁、CRID 1050001202555069824ISSN 0285-2764 
  • 中根粛治編『慶長以来諸家著述目録:和学家之部』青山堂支店、1893年(関隆治編『國学者著述綜覧』森北書店、1943年、178p頁。