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千田嘉平

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千田嘉平

千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年8月28日[1][2])- 1943年昭和18年)2月18日[1])は、明治末から昭和前期の陸軍軍人政治家華族。陸軍少将貴族院男爵議員

経歴

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鹿児島県出身。薩摩藩士千田貞暁の二男として生まれる[1][3]。父・貞暁の死去に伴い、1908年(明治41年)6月17日、家督を相続し男爵を襲爵した[4]

1891年(明治24年)東京府尋常中学校卒業[5]1894年(明治27年)7月27日、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月18日、歩兵少尉に任官[6]。以後、近衛歩兵第2旅団副官、教育総監部副官、第4軍司令部副官、野津道貫元帥副官、近衛師団副官などを歴任[7]1916年(大正5年)7月14日、歩兵大佐に昇進し歩兵第16連隊長に就任[6]近衛歩兵第4連隊長を経て、1920年(大正9年)8月10日、陸軍少将に進み歩兵第19旅団長となる[6]1924年(大正13年)2月4日に待命となり、同年2月26日、予備役に編入された[6]

1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[8]公正会に属し死去するまで在任[7][9]。その他、日本競馬会設立委員、軍人援護対策審議会委員などを務めた[7]

栄典

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親族

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  • 姉 玉利信子(のぶこ、海軍中将・玉利親賢の妻)[1][3]
  • 長男の千田貞清(1900年生)は東洋拓殖、満州生命保険に勤務し、父親没時に襲爵。幼少時は、迪宮(昭和天皇)のお相手を務めた[13]。社団法人日本通商振興協会の理事時代には、理事の一人が詐欺を行ない、その共同責任を問われた[14][15]

脚注

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  1. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、791頁。
  2. ^ 『日本陸軍将官辞典』410頁では「8月6日」。
  3. ^ a b 『人事興信録 第13版 上』セ26頁。
  4. ^ a b 『官報』第7492号、明治41年6月18日。
  5. ^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校,1929年)
  6. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』111、116頁。
  7. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』75頁。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、34頁。
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。
  10. ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日。
  11. ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
  12. ^ 『官報』第3489号「叙任及辞令」1924年4月14日。
  13. ^ 【昭和天皇の87年】幼少期から抜群だった記憶力 弟思いの性格も産経新聞、2018.8.11
  14. ^ 東京地方裁判所 昭和54年(ワ)2800号 判決学術研究機関 大判例法学研究所
  15. ^ 佐藤鉄男「医療法人の倒産と理事の責任:病院倒産の増加が投げかけた一問題」『北大法学論集』第39巻5・6-上、北海道大学法学部、1989年8月、1415-1439頁、ISSN 03855953NAID 120000955104 

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。


日本の爵位
先代
千田貞暁
男爵
千田(貞暁)家第2代
1908年 - 1943年
次代
千田貞清