寺島誠一郎
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寺島 誠一郎(てらしま せいいちろう、1870年10月3日(明治3年9月9日[1])- 1929年(昭和4年)5月18日[1])は、日本の政治家、華族。貴族院伯爵議員。
経歴
[編集]薩摩国(現鹿児島県)出身[2]。寺島宗則の長男として生まれる[2][3]。学習院を修了後[4]、1887年(明治20年)アメリカ合衆国へ留学[3]。父・宗則の死去に伴い、1893年(明治26年)6月26日、家督を相続し伯爵を襲爵[1][5]。1895年(明治28年)ペンシルベニア大学政治経済科を卒業[3][4]。その後フランスへ留学し、1899年(明治32年)パリ法科大学、1902年(明治35年)パリ政治学院外交科をそれぞれ卒業した[3][4]。
1904年(明治37年)以降、外務省嘱託、外務大臣秘書官、臨時博覧会評議員、軍需評議会評議員、鉄道会議議員、商工審議会委員などを歴任[4]。その他、台湾拓殖製茶取締役会長、薩摩製糸取締役、三井信託監査役、華族会館幹事などを務めた[3]。 資産家でかつ美食家としても知られた[6]。
1906年(明治39年)8月25日、貴族院伯爵議員補欠選挙で当選し[7]、研究会に所属し死去するまで在任した[4][8]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]→詳細は「寺島家 (伯爵家)」を参照
- 妻 寺島きやう(三井財閥三井高辰の二女)[1]
- 長女・恭子は安田財閥を築いた安田善次郎の孫(娘の次男)安田岩次郎の妻。女子学習院卒[14]。
- 姉・多惠子は宮中顧問官長崎省吾の妻[15]。
- 弟・豐次郞の妻は子爵九鬼隆義の娘[15]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成 下巻』123頁。
- ^ a b 『日本人名大事典 第4巻』341頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第8版』テ9頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』27頁。
- ^ 『官報』第2997号、明治26年6月27日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、585頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、16頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、37頁。
- ^ 『官報』第5842号「叙任及辞令」1902年12月22日。
- ^ 『官報』第21号「叙任及辞令」1927年1月25日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第1299号「叙任及辞令」1916年11月30日。
- ^ 安田善三郞 (男性)『人事興信録 第8版』。
- ^ a b 寺島誠一郞 (男性)『人事興信録 第8版』。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『日本人名大事典 第4巻』平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(昭和12年刊)の改題複製)。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 寺島宗則 |
伯爵 寺島(宗則)家第2代 1893年 - 1929年 |
次代 寺島宗従 |