小笠原忠忱
小笠原忠忱 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文久2年2月8日(1862年3月8日) |
死没 | 明治30年(1897年)2月6日 |
改名 | 豊千代丸(幼名)、忠忱 |
別名 | 錦陵(号) |
墓所 | 福岡県北九州市小倉北区の広寿山福聚寺 |
官位 | 従四位下、侍従、左近将監、従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 豊前小倉藩主 |
氏族 | 府中小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原忠幹、母:上田氏 |
兄弟 | 貞孚、忠忱、きん、登代子 |
妻 | 正室:上杉斉憲の娘 |
子 | 長幹、長丕、豊、照子、百子 |
小笠原 忠忱(おがさわら ただのぶ)は、江戸時代末期の大名、明治時代の華族、政治家。位階勲等爵位は従三位勲三等伯爵。小笠原宗家29代当主で、豊前国小倉藩の第10代(最後)藩主、初代藩知事。貴族院伯爵議員。
第9代藩主・小笠原忠幹の次男。正室は上杉斉憲の娘。子に小笠原長幹(長男)、小笠原長丕(次男、兄・小笠原貞孚の養子)、小笠原豊(三男)、照子(津軽英麿正室)、百子(尚昌室)。幼名は豊千代丸。号は錦陵。兄に貞孚(安志藩主)。
生涯
[編集]慶応元年(1865年)9月6日、父・忠幹が死去する。しかし、嫡子の忠忱はわずか4歳という幼年であったうえ、翌年には第二次長州征伐も控えていたため、重臣たちは忠幹の喪を秘した。以後、家老の小宮民部、島村志津摩らにより藩政は動かされた。第二次長州征伐では、長州藩の攻撃を受け、慶応2年8月には小倉城に火を放って退却した。同年9月、田川郡香春に政庁を設置した。慶応3年1月、長州藩と講和する。
慶応3年(1867年)6月25日、父忠幹の死亡を幕府に届け、家督を継いだ。慶応4年3月、幼少の忠忱に代わり、重臣を上洛させて、新政府に従う姿勢を示した。同年4月7日、新政府に対し、避難していた熊本藩領から本領に戻ることを申請する。
明治2年(1869年)、豊津藩知事となり、華族に列する。明治4年7月15日、廃藩置県により知藩事職を解任される。明治6年(1873年)1月、明治政府からヨーロッパ留学の許可を得る。明治17年(1884年)には伯爵を授爵された。 明治18年(1885年)、蜂須賀正韶侯爵と徳川慶喜四女の筆子の結婚が決まった際には、礼法の宗家たる力量を発揮。三日間にわたる婚礼や披露宴を取り仕切った[1]。 明治23年(1900年)7月10日、貴族院議員となる[2]。明治30年(1897年)、36歳で死去した。
生前の著書に『小笠原流女礼抄』(1896年)がある。
栄典
[編集]- 位階
- 爵位
- 授章
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
伯爵 (小倉)小笠原家初代 1884年 - 1897年 |
次代 小笠原長幹 |