浅野長之
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浅野長之 | |
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生年月日 |
1864年6月27日 (元治元年5月24日) |
没年月日 | 1947年4月23日(82歳没) |
出身校 | 東京大学予備門 |
称号 | 侯爵 |
貴族院議員 | |
選挙区 | 侯爵議員 |
在任期間 | 1937年3月1日 - 1940年12月20日 |
浅野 長之(あさの ながゆき、1864年6月27日〈元治元年5月24日〉 - 1947年〈昭和22年〉4月23日[1])は、日本の宮内官僚、政治家、華族。貴族院侯爵議員。
経歴
[編集]浅野家分家・浅野懋績(としつぐ)の九男として生まれ、のちに従兄弟・浅野長勲の養子となる[1]。
1876年、イギリスに留学し1881年に帰国[2]。1885年、再びイギリスに留学し1889年王立理学校を卒業し、1890年に帰国[2]。この間、東京大学予備門を修了[3]。
1895年以降、宮内省に出仕し、式部官兼主猟官、外国貴賓接伴員、大喪使事務官、大礼使事務官などを歴任[3]。1910年、伏見宮貞愛親王に随行してイギリスに出張した[3]。
華族銀行とも呼ばれた十五銀行取締役を務め[3]ていたが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌に直面して銀行は破綻。頭取経験者の松方巖が財産の供出に応じたことから、浅野も滝野川中里の別邸などを銀行整理のための資金として提供した[4]。
養父・長勲の死去に伴い、1937年3月1日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任[1][5]。1939年1月21日、第74回帝国議会で資格審査委員長に互選された[6]。1940年12月20日に隠居し[7]、家督を長男の長武が継承した[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『平成新修旧華族家系大成』上巻、24-25頁。
- ^ a b 『海を越えた日本人名事典』新訂増補、68頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』13頁。
- ^ 浅野侯爵も資材提供『大阪毎日新聞』昭和2年12月4日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p104 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『官報』第3046号、昭和12年3月2日。
- ^ 『官報』第3613号、昭和14年1月23日。
- ^ 『官報』第4189号、昭和15年12月21日。
- ^ 『官報』第1016号「叙任及辞令」1930年5月22日。
- ^ 『官報』第7732号「叙任及辞令」1909年4月8日。
参考文献
[編集]- 富田仁編『海を越えた日本人名事典』新訂増補、日外アソシエーツ、2005年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 浅野長勲 |
侯爵 (広島)浅野家第2代 1937年 - 1940年 |
次代 浅野長武 |