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浅野長照

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
浅野長照
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安5年1月17日1652年2月26日
死没 宝永2年11月15日1705年12月30日
別名 長蔵(通称)
戒名 壁龍禪梭騰雲院
墓所 東京都港区愛宕青松寺
官位 従五位下式部少輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
備後三次藩
氏族 浅野氏
父母 浅野光晟自昌院
養父浅野長治
兄弟 綱晟、市、亀、長尚長照、久
正室浅野長晟の養女・園姫
養子長澄瑤泉院
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浅野 長照(あさの ながてる)は、江戸時代前期の大名通称は長蔵(ながぞう)。備後国三次藩の第2代藩主官位従五位下式部少輔(しきぶしょうゆう)

経歴

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広島藩主・浅野光晟の3男として誕生。寛文3年(1663年)9月1日、第4代将軍・徳川家綱に初御目見する。寛文6年(1666年)12月28日、従五位下・式部少輔に叙任する。

その後、伯父である三次藩主・浅野長治の養子となっていた次兄・長尚が長治に先立って死去したため、代わりに長治の養子となった。延宝3年(1675年)1月に長治が死去し、3月23日に家督を相続した。

延宝4年(1676年)4月11日に始めて領地三次に入る。天和元年(1681年)6月25日には越後国高田藩主・松平光長の家臣・本多八大夫を預かった。子ができなかったため、天和2年(1682年)8月6日、長兄の前広島藩主・綱晟の次男(藩主・綱長の弟)長澄を養子に迎えた。元禄4年(1691年)12月2日に隠居して長澄に家督を譲った。

なお、播磨国赤穂藩主・浅野長矩の正室・阿久里は、長照の養父・長治の娘であり、かつ長照の養女であるので、長矩は長照の娘婿にあたることになる。そのため元禄14年(1701年)3月15日には長矩の刃傷事件(赤穂事件)に連座して隠居の長照にも遠慮(江戸城登城禁止)処分が下された。

宝永2年(1705年)11月15日に死去した。享年54。貝塚の青松寺に葬られた。法名は壁龍禪梭騰雲院。

系譜

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