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浅野吉長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
浅野 吉長
時代 江戸時代中期
生誕 天和元年7月1日1681年8月14日
死没 宝暦2年1月13日1752年2月27日
墓所 広島市西区山手町の新庄山墓地
官位 従四位下安芸守左少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗家重
安芸広島藩
氏族 浅野氏
父母 浅野綱長馨香院
兄弟 吉長長賢中川久慶、梅、九条師孝室、一条兼香正室、松平資訓継室、於三、水野忠幹正室ら
正室前田綱紀の次女・節姫
宗恒、蝶姫、英姫、松平定輝正室
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浅野 吉長(あさの よしなが)は、安芸国広島藩の第5代藩主浅野家20代当主。

生涯

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天和元年(1681年)7月1日、第4代主・浅野綱長の長男として江戸で生まれる。元禄元年(1688年)6月18日、将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄8年12月4日(1696年)、従四位下・備後守に任官し、元服に際して将軍徳川綱吉、父・綱長双方より偏諱を受け、吉長と改名する。宝永5年(1708年)3月26日、家督を継ぐ。同年11月1日、安芸守に改める。同年12月18日、侍従に任官する。

享保10年(1725年)、広島藩藩校として、白島稽古屋敷の一部を割いて「講学所」(現在の修道中学校・修道高等学校)を創始した。享保15年(1730年)、弟の浅野長賢に対して広島新田藩3万石を分知する。享保17年12月22日(1733年)、左少将に任官する。元文4年(1739年)、宮島の大鳥居を再建している。

湯治場「湯の山温泉」は吉長公ゆかりの温泉として知られ、寛延3年(1750年)に神殿・拝殿・旧湯治場を再建・竣工した。

宝暦2年(1752年)に広島で死去した。享年72。跡を長男の宗恒が継いだ。

伊達家との確執

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正徳2年(1712年)11月、林信篤から仙台藩伊達家との和解を説得される。同時に稲葉正往伊達吉村に浅野家との和解を説得した。先祖の浅野長政は、伊達政宗から絶交の通告を受けており、それ以来浅野家と伊達家は絶交状態になっていた[1]

正徳3年1月、再び林信篤から伊達家との和解を説得される。稲葉正往・林信篤は、浅野家と伊達家の不和は江戸城内で見苦しいこと、他家でも和解の事例はあることなどを指摘し、説得を試みたのである。当初、吉長は先祖に対する不孝であるとして和解を渋っていたものの、親戚であった前田綱紀徳川吉通らの説得もあり、和解に応じる姿勢に転じた。しかし、伊達家側は国元の重臣の反対を抑えられず、和解は実現しなかった。なお、両家の和解が実現したのは、実に約280年後の平成6年(1994年)のことである。

藩政

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  • 藩政改革で成功を収めたことから、「江戸七賢人」の一人に数えられ、広島藩中興の英主・名君といわれる。
  • 先代・綱長の時代にも財政難で藩札(銀札)を発行していたが、享保15年(1730年)、吉長は藩内の金銀貨通用を停止し、藩札使用が強制された。

人物・逸話

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  • 正室の節姫は、加賀藩主・前田吉徳の姉で、吉長よりも年長者(いわゆる姉さん女房)で気も強かった。しかも、嫡男の宗恒が彼女との間に生まれていたため、吉長は側室を持つことも許されず、意見もできなかった。しかし、吉長も40歳を過ぎると次第に若い女性を望むようになり、あるときにお忍びで吉原に行って、気に入った遊女2人を愛妾にしようとした。これを知った節姫は、吉長への抗議のために切腹して諫めたという。吉長はこれに驚いて愛妾2人を遠ざけ、節姫を厚く弔い、吉徳と相談の上で幕府に対しては節姫は急病死と届け出て改易・減封を免れたという。
  • 浅野吉長は、豊臣秀吉正妻(北政所高台院の妹である長生院の子孫であり、また祖母(九条道房女)を通じて秀吉の姉日秀尼の子孫である。つまり、秀吉と高台院の傍系の血統である。また吉長は、徳川家康前田利家の血統も受け継いでいる(母の貴姫尾張藩2代藩主徳川光友の娘、曾祖母の満姫前田利常の娘で前田利家の孫かつ徳川秀忠の外孫、曽祖父浅野光晟が徳川家康の外孫)。特に家康の血は3つの流れを受け継いでいる。

系譜

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脚注

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  1. ^ 元禄赤穂事件も、宗家が絶縁状態の赤穂浅野家吉田伊達家が同役でなければ、あるいは回避できた可能性も指摘されている(三田村鳶魚の『横から見た赤穂義士』など)。伊達家からも高家・上杉家(上条上杉家)に養子が入るなど、吉良・上杉・伊達の関係は保たれている。

関連項目

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