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浅野忠正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
浅野 忠正
時代 江戸時代
生誕 享保6年2月17日1721年3月3日
死没 明和3年12月16日1767年1月5日
別名 通称:藤五郎、定之助、主計、出衛[1]、甲斐
戒名 大法院殿普山道照大居士[1]
墓所 広島県三原市本町妙正寺
主君 浅野宗恒重晟
安芸広島藩家老
氏族 浅野氏
父母 父:忠義、養父:忠晨
兄弟 忠綏忠正
藤堂信任室、養子:忠愛
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浅野 忠正(あさの ただまさ)は、江戸時代中期の安芸国広島藩家老。三原浅野家第7代。

略歴

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享保6年(1721年)2月17日、三原浅野家第4代忠義の七男として生まれる。宝暦9年(1759年)、兄忠綏の長男で三原浅野家を継いでいた忠晨が病により隠居し、子がなく弟もまだ幼いため、叔父の忠正が家督を相続した。[2]

宝暦9年12月(1760年)、幕府巡見使を三原で出迎える。宝暦13年(1763年)、藩主重晟の藩主襲封の謝恩使として江戸に下向し、将軍家治に拝謁し太刀などを献上した。[1]

明和3年12月16日(1767年)、死去、享年47。菩提寺の妙正寺に葬られた。家督は兄忠綏の三男忠愛が相続した。忠正の娘は伊勢津藩士藤堂信任に嫁ぎ、その次男忠敬が三原浅野家第10代となる。

出典

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  1. ^ a b c 三原市史
  2. ^ 御調郡誌

参考文献

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