浅野忠義
表示
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 寛文7年3月17日(1667年5月9日) |
死没 | 享保15年1月10日(1730年2月26日) |
別名 | 長五郎、万助、通称:甲斐 |
墓所 | 広島県三原市本町妙正寺 |
主君 | 浅野綱長→吉長 |
藩 | 安芸広島藩家老 |
氏族 | 浅野氏 |
父母 | 父:浅野忠真、母:月渓院 |
子 | 忠綏、忠正 |
浅野 忠義(あさの ただよし)は、江戸時代前期から中期の安芸国広島藩の家老。三原浅野家第4代。
略歴
[編集]寛文7年(1667年)3月17日、三原浅野家第3代忠真の四男として広島に生まれる。天和3年(1683年)11月、父の隠居により元服して家督を相続する。
元禄6年(1693年)、前藩主浅野光晟の葬儀で藩主名代を務める。元禄11年(1698年)5月、領地が隣接する福山藩主水野勝岑が急死し、改易が決まると不慮の事態に備え、領内の情勢の探索した。9月、勅額火事で上野寛永寺が延焼し、幕府より浅野家が修復を命じられ、工事の総司を務める。元禄12年(1699年)、修復工事が完了し、将軍より褒美として銀50枚、時服5領、羽織1領を拝領する。公弁法親王からも褒美として赤革の乗輿を拝領した。元禄13年(1700年)、宮沖新開を干拓する。正徳3年(1713年)、朝鮮通信使の接待役を安芸蒲刈で務めた。
享保15年(1730年)1月10日、広島で死去、享年64。菩提寺の妙正寺に葬られた。