尚昌
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尚昌 | |
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第二尚氏(尚侯爵家) | |
尚昌(1916年) | |
称号 | 侯爵 |
出生 |
1888年9月17日 日本・沖縄県首里 |
死去 |
1923年6月19日(34歳没) 日本・東京府 |
埋葬 | 日本・東京府下谷区津梁院墓地 |
配偶者 | 尚百子 |
子女 | |
父親 | 尚典 |
母親 | 尚祥子 |
尚 昌(しょう しょう[1]、1888年(明治21年)9月17日 - 1923年(大正12年)6月19日[1][2])は、日本の華族、宮内官。爵位は侯爵[1]。貴族院侯爵議員[1]。第二尚氏第21代当主。
生涯
[編集]1888年(明治21年)9月11日、尚典の長男として首里で誕生。1896年(明治29年)に上京し、学習院初等科に入学する。1909年(明治42年)に旧制学習院高等科を中退し、1911年(明治44年)に父の薦めでオックスフォード大学に留学した。随行員として沖縄県出身の大蔵官僚である神山政良を伴う。
1915年(大正4年)に帰国し、宮内省式部官となる。1918年(大正7年)9月18日に長男誕生。東恩納寛惇に名前(尚裕)をつけてもらっている。
1920年(大正9年)10月20日、父・尚典の薨去に伴い侯爵を襲爵し[3]、同日、貴族院侯爵議員に就任した[4][5]。
1923年(大正12年)6月、中国旅行中に盲腸炎を発症し、東京で死去した。
栄典
[編集]- 1908年(明治41年)9月30日 - 従五位[6]
- 1914年(大正3年)10月20日 - 正五位[7]
- 1921年(大正10年)11月1日 - 従四位[8]
- 1923年(大正12年)6月19日 - 正四位[9][10]
家族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e 『議会制度七十年史 第1』侯爵議員17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年11月11日閲覧。
- ^ 『官報』第3270号「帝国議会」1923年06月25日。
- ^ 『官報』第2467号、大正9年10月21日。
- ^ 『官報』第2468号、大正9年10月22日。
- ^ 『帝国議会会議録』第44議会 貴族院「貴族院議員の異動」。
- ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
- ^ 『官報』第667号「叙任及辞令」1914年10月21日。
- ^ 『帝国議会会議録』第45議会 貴族院「貴族院議員異動」。
- ^ 『帝国議会会議録』第47議会 貴族院「貴族院議員異動」。
- ^ 『官報』第3267号「叙任及辞令」1923年6月21日。
- ^ 『わたしの夫婦論』32頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年11月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1969年。
- 読売新聞婦人部編『わたしの夫婦論』読売新聞社、1975年。
日本の爵位 | ||
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先代 尚典 |
侯爵 尚家第3代 1920年 - 1923年 |
次代 尚裕 |
その他の役職 | ||
先代 尚典 |
第二尚氏当主 第21代:1920年 - 1923年 |
次代 尚裕 |