小笠原貞朝
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 寛正2年9月18日(1461年10月21日) |
死没 | 永正12年6月3日(1515年7月14日)[1] |
別名 | 豊松丸、又二郎 |
官位 | 従五位下、従五位上[1]、右馬助[1]、信濃守[1]、修理大夫[1] |
幕府 | 室町幕府 信濃守護職 |
氏族 | 府中小笠原氏 |
父母 | 小笠原長朝[1] |
子 | 長高、長棟[1]、定政(幡豆小笠原氏)、大日方長利 |
小笠原 貞朝(おがさわら さだとも)は、戦国時代の武将。信濃小笠原氏(府中小笠原家)当主。小笠原長朝の子。
概要
[編集]文明年間には在京して将軍足利義尚の弓馬師範を務めた。文亀元年(1501年)、父の長朝が没し、家督を継承する。同年尾張守護斯波義寛の要請に応じて遠江国二俣に遠征、今川氏親と戦った。この時、斯波義寛の意向で対立する松尾家の小笠原定基と和睦するが、後に定基は今川方について三河国に出兵する。その後、永正6年(1507年)頃に改めて貞朝の娘を松尾家の貞忠の妻にすることで和睦を図っている。
永正元年(1504年)、家臣の島立貞永(d.1517年 享年93)に命じ、同じく小笠原家中の坂西(さかにし)氏の居館跡に深志城を築城させたとされる。長男の長高を廃嫡し、次男の長棟に家督を継がせた。 同12年(1515年)没、享年55[1]。法名は固山宗堅、雲光殿前郎将日山宗賢居士。
著書として「和礼儀統要約集」がある。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜 巻第188』
- 今井尭「小笠原系図」『日本史総覧』 3(中世 2)、新人物往来社、1984年。 NCID BN00172373。
- 後藤芳孝「小笠原氏の内訌をめぐって」(初出:『松本市史研究』5号(1995年)/所収:花岡康隆 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一八巻 信濃小笠原氏』(戒光祥出版、2016年)ISBN 978-4-86403-183-7)