樺山愛輔
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樺山 愛輔(かばやま あいすけ、慶応元年5月10日(1865年6月3日) - 昭和28年(1953年)10月21日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。伯爵・樺山資紀の長男。
生涯
[編集]1865年、薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。1878年、米国に留学。1885年、コネチカット州ウェズリアン大学に入学。[1]その後、1887年にアマースト大学に編入。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、函館どつくや日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年7月10日に貴族院議員に選任され[2]、1946年6月13日まで務めた[3][4]。1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂、盟友の松平恒雄などと連携していわゆる「ヨハンセングループ」の終戦工作に従事した。1946年、枢密顧問官に就任。翌年日本国憲法の施行により枢密院廃止。公職追放となる[5]。
20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。墓所は染井霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)6月10日 - 従五位[6][7]
- 1894年(明治27年)6月30日 - 正五位[6]
- 1901年(明治34年)6月21日 - 従四位[6]
- 1913年(大正2年)6月30日 - 正四位[6]
- 1924年(大正13年)11月15日 - 従三位[6][8]
- 1932年(昭和7年)12月2日 - 正三位[6][9]
- 1941年(昭和16年)12月15日 - 従二位[6]
- 勲章等
- 1922年(大正11年)2月28日 - 伯爵襲爵[6]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 金杯一個・大礼記念章(昭和)[6]
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 朝鮮昭和五年国勢調査記念章[6]
- 1934年(昭和9年)
- 1940年(昭和15年)
- 1944年(昭和19年)1月15日 - 御紋付木盃[6]
- 外国勲章佩用允許
- 1934年(昭和9年)3月1日 - 満洲帝国:大満洲国建国功労章[6]
- 1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日記念章[6]
- 1937年(昭和12年)10月7日 - ベルギー王国:ゲーロンヌ勲章グランオフィシエ[6]
- 1941年(昭和16年)12月9日 - 満洲帝国:建国神廟創建記念章[6]
家族
[編集]- 妻・常子は、伯爵川村純義の娘。兄に鉄太郎、大寺純藏がいる。
- 長男・丑二は、東宝取締役、モルガン銀行東京支店顧問。妻の梅子は橋本圭三郎の娘。
- 長女・泰子は、男爵近藤廉平の二男・廉治の妻。「不良華族事件」も参照。
- 二女・正子は、白洲次郎の妻。
脚注
[編集]- ^ Bronson Potts, David. Wesleyan University, 1831-1910: Collegiate Enterprise in New England. Yale University Press, 1992, p. 345.
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、33頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』25頁。
- ^ 『官報』第5828号、昭和21年6月20日。
- ^ 『朝日新聞』1947年6月22日一面。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 「樺山愛輔」 アジア歴史資料センター Ref.A06051186300
- ^ 『官報』第582号「賞勲叙任」1885年6月11日。
- ^ 『官報』第3672号「叙任及辞令」1924年11月18日。
- ^ 『官報』第1779号「叙任及辞令」1932年12月3日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
外部リンク
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日本の爵位 | ||
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先代 樺山資紀 |
伯爵 樺山(資紀)家第2代 1922年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |