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{{基礎情報 公家
'''澤 為量'''(さわ ためかず、[[1812年]][[4月25日]]([[文化 (元号)|文化]]9年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[1889年]]([[明治]]22年)[[8月9日]])は[[幕末]]・[[明治]]初期の[[公卿]]。官位は[[参議]]・[[外務卿]]・[[正二位]][[子爵]]。
| 氏名 = 沢 為量
| 画像 = Sawa Tamekazu.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 澤為量
| 時代 = [[江戸時代]]後期 - [[明治|明治時代]]
| 生誕 = [[文化 (元号)|文化]]9年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]([[1812年]][[4月25日]])
| 死没 = [[明治]]22年([[1889年]])[[8月9日]]
| 改名 =
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| 官位 = [[正二位]]、[[参議]]、[[子爵]]
| 主君 = [[仁孝天皇]]→[[孝明天皇]]→[[明治天皇]]
| 氏族 = [[澤家]]
| 父母 = 父:[[澤量行]]、母:家女房
| 兄弟 =
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| 子 = 藤子、延子、[[澤宣種|宣種]]、忠子、[[岩倉久子]]<br>養子:'''''[[澤宣嘉|宣嘉]]'''''
| 特記事項 =
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'''沢 為量'''(さわ ためかず、{{旧字体|'''澤 爲量'''}})は、[[江戸時代]]後期の[[公卿]]。[[治部省|治部大輔]]・[[澤量行]]の子。[[官位]]は[[正二位]]・[[参議]]。[[澤家]]7代・9代当主。維新後[[子爵]]。


== 生涯 ==
== 経歴 ==
父は[[治部省|治部大輔]]・[[澤量行]][[朝臣]]。母は家女房。子に[[澤宣種]](養子・[[澤宣嘉]]の養子となる)。文政4年([[1821年]])、[[従五位]][[文政]]8年([[1825年]])、元服して[[正五位]][[武蔵国|武蔵]]兼介。[[天保]]10年([[1836年]])、[[従四位]][[民部省|民部大輔]]。[[嘉永]]元年([[1848年]])、[[正三位]]。[[安政]]2年([[1855年]])、従二位。
[[文政]]4年([[1821年]])、[[従五位|従五位下]]。文政8年([[1825年]])、元服して[[正五位|正五位下]][[武蔵国|武蔵]]。[[天保]]10年([[1836年]])、[[従四位|従四位上]][[民部省|民部大輔]]。[[嘉永]]元年([[1848年]])、[[正三位]]。[[安政]]2年([[1855年]])、[[従二位]]


安政5年([[1858年]])、養子宣嘉とともに[[廷臣八十八卿列参事件]]に加わり、[[日米修好通商条約]]勅許に反対。その後は病弱のため、公職から退いた。
安政5年([[1858年]])、養子・[[澤宣嘉|宣嘉]]に[[廷臣八十八卿列参事件]]に加わり、[[日米修好通商条約]]勅許に反対。その後は病弱のため、公職から退いた。


[[戊辰戦争]]では、[[慶応]]4年([[1868年]])2月に[[奥羽鎮撫使]]総督に挙げられ、ついで[[九条道孝]]の総督就任とともに副総督となって出陣した。奥羽各地を転戦して10月凱旋する。明治2年([[1869年]])6月、軍功により[[賞典禄]]200石を永世下賜された。同年8月宮内権大丞に任ぜられたが、明治3年([[1870年]])11月に退官して宣嘉に家督を譲った。しかし明治6年([[1873年]])9月、宣嘉の薨去により再度家督を継承し、明治16年([[1883年]])9月特旨をもって[[従二位]]に叙せられた。
[[戊辰戦争]]では、[[慶応]]4年([[1868年]])2月に[[奥羽鎮撫使]]総督に挙げられ、ついで[[九条道孝]]の総督就任とに副総督となって出陣した。


奥羽各地を転戦して10月凱旋する。[[明治]]2年([[1869年]])6月、軍功により[[賞典禄]]200石を永世下賜された。同年8月宮内権大丞に任ぜられたが、明治3年([[1870年]])11月に退官して宣嘉に家督を譲った。
明治17年([[1884年]])7月7日、[[華族令]]により子爵。明治22年(1889年)薨去。死に先立って正二位に叙せられた。後に澤家は[[伯爵]]に陞爵する。


明治6年([[1873年]])9月、宣嘉の薨去により再度家督を継承し、明治16年([[1883年]])9月特旨をもって従二位に叙せられた。明治17年([[1884年]])7月7日、[[華族令]]により子爵。
== 家族 ==
*父:[[澤量行]]


明治22年([[1889年]])薨去。享年78。死に先立って正二位に叙せられた。後に澤家は[[伯爵]]に陞爵する。
*子:[[澤宣嘉]][[姉小路公遂]]5
*長女:藤子宣嘉妻)
*次女:延子石山基正妻)(※基正は[[宣嘉|宣嘉]]の実弟・[[石山基文]]の子
** 子に石山基則、正子(北畠通城([[久我建通]]男)室)
*長男:[[澤宣種]]宣嘉養子
*三女:忠子岡崎国有妻)
*四女:[[岩倉久子|久子]][[岩倉具定]]妻)


== 関連事項 ==
== 栄典 ==
* [[1889年]](明治22年)
*[[澤家]]
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**[[8月9日]] - [[旭日章|勲二等旭日重光章]]<ref name=po/>

== 系譜 ==
*父:[[澤量行]]
*母:家女房
*妻:不詳
*生母不詳の子女
**長女:藤子 - 澤宣嘉正室
**次女:延子 - [[石山基正]]室、※基正は[[宣嘉|宣嘉]]の実弟・[[石山基文]]の子
*** 子に石山基則、正子([[北畠通城]]([[久我建通]]男)室)
**長男:[[澤宣種]] - 宣嘉養子
**三女:忠子 - [[岡崎国有]]室
**四女:[[岩倉久子|久子]] - [[岩倉具定]]正室
*** 玄孫:[[加山雄三]](歌手)
*養子
**男子:[[澤宣嘉]] - [[姉小路公遂]]の五

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*神宮滋『戊辰戦争出羽戦線記―澤為量・奥羽鎮撫副総督の征討記録から』無明舎出版、ISBN4-89544-479-8
*神宮滋『戊辰戦争出羽戦線記―澤為量・奥羽鎮撫副総督の征討記録から』無明舎出版、ISBN 4-89544-479-1


== 関連項目 ==
*[[澤家]]
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沢 為量
澤為量
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化9年3月14日1812年4月25日
死没 明治22年(1889年8月9日
官位 正二位参議子爵
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 澤家
父母 父:澤量行、母:家女房
藤子、延子、宣種、忠子、岩倉久子
養子:宣嘉
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沢 為量(さわ ためかず、旧字体澤 爲量)は、江戸時代後期の公卿治部大輔澤量行の子。官位正二位参議澤家7代・9代当主。維新後子爵

経歴

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文政4年(1821年)、従五位下。文政8年(1825年)、元服して正五位下武蔵介天保10年(1836年)、従四位上民部大輔嘉永元年(1848年)、正三位安政2年(1855年)、従二位

安政5年(1858年)、養子・宣嘉と共に廷臣八十八卿列参事件に加わり、日米修好通商条約勅許に反対。その後は病弱のため、公職から退いた。

戊辰戦争では、慶応4年(1868年)2月に奥羽鎮撫使総督に挙げられ、ついで九条道孝の総督就任と共に副総督となって出陣した。

奥羽各地を転戦して10月凱旋する。明治2年(1869年)6月、軍功により賞典禄200石を永世下賜された。同年8月宮内権大丞に任ぜられたが、明治3年(1870年)11月に退官して宣嘉に家督を譲った。

明治6年(1873年)9月、宣嘉の薨去により再度家督を継承し、明治16年(1883年)9月特旨をもって従二位に叙せられた。明治17年(1884年)7月7日、華族令により子爵。

明治22年(1889年)薨去。享年78。死に先立って正二位に叙せられた。後に澤家は伯爵に陞爵する。

栄典

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系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『官報』第1835号「叙任及辞令」1889年8月10日。

参考文献

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  • 神宮滋『戊辰戦争出羽戦線記―澤為量・奥羽鎮撫副総督の征討記録から』無明舎出版、ISBN 4-89544-479-1

関連項目

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
澤家初代
1884年 - 1889年
次代
澤宣量
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