「Wikipedia‐ノート:存命人物の伝記/過去ログ1」の版間の差分
→「貧弱なソース」に関して: 放送媒体、は論外。 |
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:::私も、「放送媒体か否か」もしくは「ブログか否か」という事を、「風聞・ゴシップか否か」の基準にされてしまう事を心配します。著名人ならば、場合によっては活字媒体が扇情的な見出しを使うなどして振りまいた風聞(≒「どこかで読んだ」になりがち)を放送媒体や本人の公式ブログで否定する事があるからです。--[[利用者:古鳥羽護|古鳥羽護]] 2007年7月6日 (金) 15:22 (UTC) |
:::私も、「放送媒体か否か」もしくは「ブログか否か」という事を、「風聞・ゴシップか否か」の基準にされてしまう事を心配します。著名人ならば、場合によっては活字媒体が扇情的な見出しを使うなどして振りまいた風聞(≒「どこかで読んだ」になりがち)を放送媒体や本人の公式ブログで否定する事があるからです。--[[利用者:古鳥羽護|古鳥羽護]] 2007年7月6日 (金) 15:22 (UTC) |
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::::とにかく、今、生きている人間に迷惑をかけてはいけない、ということですから「TVで見た、ラジオで聞いた、どこかで読んだ」は全部ダメだということです。生きている個人に関する記述は明日すぐに検証できないといけないし、検証できない放送媒体は全部ダメ、ということです。そのためにウィキペディアの記載量が、たとえ10分の1になってもいたしかたない、ということです。あたりまえですが、百科事典より存命人物が優先です。--[[利用者:Album|Album]] 2007年7月6日 (金) 16:07 (UTC) |
::::とにかく、今、生きている人間に迷惑をかけてはいけない、ということですから「TVで見た、ラジオで聞いた、どこかで読んだ」は全部ダメだということです。生きている個人に関する記述は明日すぐに検証できないといけないし、検証できない放送媒体は全部ダメ、ということです。そのためにウィキペディアの記載量が、たとえ10分の1になってもいたしかたない、ということです。あたりまえですが、百科事典より存命人物が優先です。--[[利用者:Album|Album]] 2007年7月6日 (金) 16:07 (UTC) |
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:::::「テレビで見た」と「ラジオで聞いた」はウェールズ氏の発言じゃないし、第一その考え方だと |
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活字メディアが出典の情報も危ない。それだって誰でもすぐに読める物じゃないからね。[[利用者:Hostname|ddd]] 2007年7月7日 (土) 09:05 (UTC) |
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== 関連する基本方針への追加提案 == |
== 関連する基本方針への追加提案 == |
2007年7月7日 (土) 09:05時点における版
項目名
人物記事に限った話ではないので「生存している人物に関する記述」とする方が適切だと思われます。とりあえず転送しました。johncapistrano 2006年6月17日 (土) 17:47 (UTC)
項目名について意見調査
項目名が決まらないと正式化に進みにくいので「項目名についての意見調査」を行います。--miya 2006年8月8日 (火) 23:28 (UTC)
- 項目名候補
- 賛成できる候補の下に ** ~~~~(コメント) で署名&コメントしてください。複数署名可です。これ以外にも案があれば追加してください。
- (注意)これは「意見調査(POLL)」であって「決定のための投票(VOTE)」ではありません。
- Wikipedia:存命人物の伝記
Masao 2006年8月13日 (日) 01:55 (UTC) 第一候補は「~に関する記述」だが、現状でも賛成可能
- Wikipedia:存命人物に関する記述
- Masao 2006年8月13日 (日) 01:55 (UTC)
- miya 2006年9月26日 (火) 02:18 (UTC)「存命」は健在な場合にも使えるようです>大辞泉
- S kitahashi(Plé)2006年9月26日 (火) 03:34 (UTC)
- --Tiyoringo 2006年11月25日 (土) 03:22 (UTC)(生きている、生存しているは、まだ亡くなっていないという意味に誤解を与えそう。)
- Panpulha 2006年12月20日 (水) 03:29 (UTC)
なっしゅびる 2006年12月23日 (土) 02:19 (UTC)(反応が遅れました。人物伝・伝記も迷いましたが、そもそも人物に関する記載全般の問題でしょうし。)
- Wikipedia:半生記
- っ 2006年8月8日 (火) 23:42 (UTC)(少なくとも「伝記」は生きている人には使わない。また、当の本人に失礼でないようにと思うと、「生きている」などは使いづらい。)
- Goki 2006年9月28日 (木) 09:05 (UTC)「存命人物」という表現が直訳的でものすごく違和感を覚えるので、選択肢として存命がないものにしたという消極的な選択。本当はどのタイトルもふさわしくないと思っていますが、「じゃあお前が考えろ」といわれても困るので。--Goki 2006年9月28日 (木) 09:05 (UTC)
- Wikipedia:存命中の人物
- Wikipedia:在世者に関する記述
- Wikipedia:現存の人物に関する記述
- Bcjp 2007年2月3日 (土) 07:09 (UTC)(みなさん「対象人物の生死」という点だけを注視しておられるようですが、英語版の living persons という項目の概念には、「架空の人物と対比しての、実在の人物」という観点も含まれているように思います。両方のニュアンスを含んだ表現として提案します。)
- なっしゅびる 2007年2月4日 (日) 05:17 (UTC)(上記提案に同意し、方針変更。)
- 支持の無い候補をコメントアウトしました。--miya 2006年9月26日 (火) 02:18 (UTC)
英語版のCategory:Living peopleに対応するカテゴリ
候補を挙げてください。--miya 2006年8月8日 (火) 23:28 (UTC)
- 「Category:存命する人物」とか?--Hoj 2006年6月18日 (日) 16:11 (UTC)
- 「Category:現在の人物」
- 「Category:現在 (人物)」
- 「Category:半生記」
ちょっと驚いたのですが、名称を決める前に「英語版のCategory:Living peopleに対応するカテゴリ」を作成するかどうか(本当に作成したいの?)を議論してください。先回りして言うと、その作成には反対します。(赤リンク外しました)--Yas 2006年8月14日 (月) 09:03 (UTC)
- ああ、拙速でした。確かに、要らないかもしれませんね・・・。--miya 2006年9月26日 (火) 02:18 (UTC)
翻訳について
これも、タイトルの翻訳が難しいですね。「存命する個人の人物記」あたりでは? 以下、気づいた点です。--っ 2006年7月8日 (土) 15:34 (UTC)
- OTRS—info-ja@wikipedia.jpを併記した方がわかりやすいのでは?
- 他の記事分野ではeventualism作戦(そのうち良くなるさ戦略)が適用可能であっても、できの悪い(badly written)存命人物伝記の場合は—できの悪い記事でも、他の記事ではよくなるのを気長に待っていればいいでしょうが、存命中の人物の記事の場合は
- (状況によっては)当該人物自身が公表したものを文章化すべきです。<を用いることも状況によってはありえます。—場合によっては当該人物自身によって公表されたものを文章化するほうがよいかもしれません。
- obscure—読者の限られた
- 当事者の著名さと等価であること。—情報に当事者の知名度につりあうような重要性があること
- Presumption in favor of privacy—当人はプライバシーを望んでいると推定する
- 「〜離婚をした」ということは—「〜離婚をした」これは
- 2つめの例も例を「」に入れた方がわかりやすいかと。
- 誰かが底意がある偏った記述を加えようとしたら—議題か偏っている観点を押しているように見えるなら、
- IPが存命人物の記事を全部または一部刷くしかするばあいは、注意深く値踏み—IP編集者が〜削除する場合は、注意深く判断
- 小学館の「類語例解辞典」というのを買ってきたのですが、「存命」というのは、すでに亡くなった方について、生きていたときのことを語るときの用語だそうです。ということで、この記事に「存命」というのはよくなさそうですね。現在生きている人については「生きている」か「生存」を使うべきだとのこと。とはいえ、「生存」には「生き残った」という意味合いが感じられますよね。というわけで「生きている」くらいしか日本語がなさそうです。一方、「biographies」は無理してそのまま訳出する必要は感じられません。
- 生きている人物についての記事
- 生きている個人についての記事
- あたりでしょうか。--っ 2006年7月10日 (月) 08:52 (UTC)
- 「生きている人の伝記」にあたる日本語に「半生記」というのがありましたね。--っ 2006年7月12日 (水) 11:53 (UTC)
- 「存命」は健在な場合にも使えるようです>「両親は存命しております」など>大辞泉
- 上記の用例は身内に対して使っている例文なので、他人が使っても失礼にならないかはっきりしません。自分の感覚では、他に適当な語もなく、ルールとしての冷徹な客観的表現(逆に、故人を指すとき法令の文言であれば「死者」と呼びます)として使ってよいと思いますが、人によっては失礼だと感じてもおかしくないと思います。したがって、失礼だと感じる方を心配するのであれば、逆に考えて「故人でない人物の伝記」のようにするのはいかがでしょうか。あるいは固い(というか古語)ですが「生者」でしょうか。
- また、「伝記」という表現についても、(本当は差がないのですが)Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)でも使われている「人物伝」という言葉を使うと、耳慣れないためか、「人物」という部分が前に出ているためか、「伝記」と違って「故人に対して使う言葉じゃないのか?」という印象を受けないような気がします。
- ということで、「故人以外の人物伝」ではいかがでしょうか。--Njt 2006年9月27日 (水) 03:04 (UTC)
- 「人物伝」よりは「人物記」の方が現在の人物についてはいいように思うのですが。
- それはさておき、「生きている人」を表す日常的な表現が、日本語にない、ということに、今更ながら驚いています。あっても、生死の境をさまよったが生きている、というニュアンスになってしまいますよね。これは、故人でない人間について、生死を語ることを、忌まわしいこととして避ける、という日本の生死観というか、社会的風習によるのではないかと思います。(唯一の例外が「未亡人」ですね。)--っ 2006年9月27日 (水) 04:08 (UTC)
- 法令の文言に類するものとして判決文がありますが、中田英寿事件の判決文中(中田英寿事件の判決評釈)に「伝記本」という表現が使われていました。故人でなくても「伝記」という表現を使うということになりますね。
- なお、「生きている人」を指す普通に使える表現がないことに驚きなのは同感です。キリスト教社会においては「人間はmortalである」(これも普通に使う日本語には変換しづらいですね)という考えが毎週のように強調されることもあって、日本の場合とは感覚が違うのかもしれません。--Njt 2006年9月29日 (金) 12:35 (UTC)
- なるほど、生きている人に伝記が使える点、納得しました。--っ 2006年9月29日 (金) 14:13 (UTC)
- インデント戻します。中田氏の件で「伝記」という言葉が使われたといっても、この場合はコンテクストを考慮する必要があります。生存中の人物が(生存中にも関わらず)自伝を書く際は、通常、それまでの自分の半生を擬似的に”過去のもの”(”死んだもの”)とみなす作業が必要です。これは自分の半生を客観的に記述するためです。そしてそこに記すことは”すでに死んだもの”であるがゆえ、現在の自分や今後の自分へつながるような記述は通常ありません。要するに、「伝記」という言葉には常に死のイメージがついているものだと考えられます。このような理由で、私としては項目名に「伝記」という言葉を使うのは反対です。「記述」あたりがいいのではないかと思います。--ミキティ 2006年12月19日 (火) 17:42 (UTC)
日本語版としての記述を付け足す際に
今はまだ翻訳段階ですので本文をさわりませんが、日本語版としての記述を付け足す際、ノンフィクション「逆転」事件について言及が必要でしょう。忘れそうなのでメモがわりにコメントを残しておきます。--Michey 2006年11月3日 (金) 13:25 (UTC)
否定と批判の違い
>Remove unsourced criticism :出典無き批判は除去 >Critics:批判、あら捜し を読む限り否定と批判の違いが不明瞭に見えます。 主観的に否定か批判かと認識され行動に移されます。220.111.54.208 2006年12月1日 (金) 06:59 (UTC)
Template:Blpに対応するテンプレート
このテンプレートは作成されるものでしょうか? 利用者ページで先走って作りかけています(template化のため打ち消し--秋月 智絵沙 2007年4月18日 (水) 02:14 (UTC))が。内容が内容なのでもっと慎重になるべきかと不安になってます(別節のカテゴリの件でも先ず作成する必要があるかどうかで話すべきだという話が出ていたので心配です)。--Chiether 2007年1月26日 (金) 02:37 (UTC)
- さしあたり移動をお願いします。直すところがあればあとで直しますので。--S kitahashi(Plé)2007年4月18日 (水) 02:08 (UTC)
- Template:Blpに移動しました。リンク元の修正も行います。--秋月 智絵沙 2007年4月18日 (水) 02:12 (UTC)
試行化の提案
長らく仮称・翻訳中のままで動きにくくなっていますが、訳文にそれほど大きな問題はないように思われますので、ひとまず現状の訳文と仮称のまま、試行段階に移行してはいかがでしょうか。つまり「公式な方針の、試験段階に入った草案」という位置づけに移行し、草案のままで「公式な方針」の拘束力を持たせて仮運用し、問題点を洗い出すということです。試行しながら、並行して改名の検討を続けましょう。
試行に入る際は Chiether さんによるテンプレート和訳案 利用者:Chiether/Template:Blp(Template:Blpに移動--秋月 智絵沙 2007年4月18日 (水) 02:21 (UTC))も Template 空間に移動し、併せて試行しましょう。
いかがでしょうか。時期尚早でしょうか。あるいは試行に移る前に、最低限ここだけは詰めておかなければ、という点はありますか? --Kanjy 2007年3月20日 (火) 15:04 (UTC)
- 特に大きな問題は感じませんでした。名称と細部については試行開始後に詰めるのがよいかと思います。--S kitahashi(Plé)2007年3月21日 (水) 09:13 (UTC)
- それでは、そろそろ英語の原文と「翻訳中」テンプレートを外してもいいのではないでしょうか?--Widehawk 2007年4月17日 (火) 16:05 (UTC)
- 賛成です。この文書については、公式な方針の位置に一日も早く格上げすることが大事だと思います。文書の名前などは後から詰めればいいという S kitahashi さんのご意見に賛成です。すでに最初の Kanjy さんの提案から一月近くがたち、とくに反対もありませんので、ステータスはひとつ進めてもいいのじゃないでしょうか。 --Aphaia 2007年4月17日 (火) 16:08 (UTC)
- 僕がこの文書を最初に見たのが半年くらい前で、それから正式化に向けて活発な動きがあるようには見えなかったので、本当に「一日も早く格上げ」して欲しいです。その半年の間にもこの文書が正式化していれば…というようなことは多くあっただろうと思います。--Widehawk 2007年4月17日 (火) 16:43 (UTC)
ひとまず英文を除去しました。提案から4/20でまる一ヶ月なので、20日まで反対がなければ試行に入りたいと思いますが、いかがでしょうか。また、それに伴い止まっている改名提案をいったん除きました。名称で議論があるようなら、正式化後にゆっくり議論できればと考えています。--S kitahashi(Plé)2007年4月17日 (火) 17:52 (UTC)
- 異議ありません。--Aphaia 2007年4月17日 (火) 20:56 (UTC)
- Template:Blpに対応するテンプレートの節と重複しますが、Template:Blpに移動しましたのでリンク除去を行いましたことを周知致します。--秋月 智絵沙 2007年4月18日 (水) 02:21 (UTC)
上記スケジュールに異議ありません。皆さまに感謝いたします。 --Kanjy 2007年4月18日 (水) 03:59 (UTC)
よく見ると、ところどころまだ訳語が定まっていない箇所があります。(カッコ内は自分の意見です。)
- Wikipedia:存命人物の伝記#論理的根拠(この方針が必要な理由)の最初の段落の
touchyの訳語: 厄介/困難 - 同段落の
「…や財団職員の継続的な」の後の「関与/介入」
(「関与または介入」にすればよいと思います。) - Wikipedia:存命人物の伝記#批判、あら捜しの「悪意のある記述」中の
pushing an agenda or a biased point of viewの訳語(?): 誰かが底意ある議題(agenda)や偏っている観点を押しているように見えるなら / 誰かが底意がある偏った記述を加えようとしているように見えるなら
試行化前後に申し訳ないですが、意見をお願いします。--Widehawk 2007年4月20日 (金) 06:28 (UTC)
「貧弱なソース」に関して
「貧弱なソース」に関してウェールズ氏の発言を考慮し、敷衍しました。いわゆる「変更」とは考えていませんが、異論はあるかもしれません。あるいは「ブログで読んだ」という記述を追記すべきかもしれません。いずれにせよ、中傷目的で編集が行われることを最大限の努力で保守的に防ぐべきと考えます。--Album 2007年5月10日 (木) 13:53 (UTC)
それを見て「テレビやラジオは全部駄目なんだ」って感じで、報道による情報と個人発の情報を混同した人がいたから、「どこかで見た」に直したほうがいいよ。 そのままにしとくと芸能関係の項目がめちゃくちゃになっちまう。—以上の署名の無いコメントは、220.208.188.195(会話/whois)氏が[2007年6月20日 (水) 08:06 (UTC)]に投稿したものです(ライアンによる付記)。
- IP氏の言う様な芸能人の記事の混乱という問題もあるかもしれませんが、出典としてテレビやラジオを採用しないという事は、「中傷目的の編集」を防ぐという事にはならないと思います。例えば、ある著名人がテレビのレポーターのインタビューに答えた内容について、ゴシップ系の雑誌が言葉尻を捉える様な報道をしてしまい、それがもっと評判の良い新聞や雑誌で既成事実化されてしまった場合、その人が中傷されない為には、そのインタビューのVTRを出典にする事が一番良いという事になります。
- 英語版には、"poorly source"の例として、”「テレビで観たことがある」「ラジオで聴いた」といったような”に当たる例示はされていません。 ジンボ・ウェールズは、単にそれを、'I heard it somewhere'「私はそれをどこかで聞いた」 と言った様な pseudo information「擬似情報」だと言っているだけです。つまり、「貧弱なソース」というのは、「風聞」の事だと思うのですよ。
- 勿論、先の例でゴシップ誌がやった様な言葉尻を捉える使い方をしたり、明らかな言い間違いを理由にして責任を問う様な使い方をしてしまえば、「中傷目的」という事になってしまいますが、その人物がテレビで繰り返し主張した事をその人物の主義主張として伝記記事内に記す事は中傷でも何でもないでしょう。この判断については、個別記事のノートでの合議制で行うべきだと思います。
- 以上の理由から、”「テレビで観たことがある」「ラジオで聴いた」といったような”という文言を差し戻す事を提案します。--古鳥羽護 2007年6月25日 (月) 14:35 (UTC)
- いかにすれば個人の名誉・プライバシーetcが守られるか、が重視すべき問題と思います。で、目的のために件の文言があったほうがいいか否かを考えると、私はあったらあったである程度有効ではないかと思います。新聞や雑誌による既成事実化は、新聞社なりが「載せてよし」と判断したことを意味する、と解せば、新聞等が言及した範囲内で可能性が開ける、てのもありかと…。Wales氏個人の意図は、それほど重視すべき問題でもないのでは、と思います。--S kitahashi(Plé)2007年6月25日 (月) 16:02 (UTC)
- 「どこかで読んだ」というのも、ここの文脈ではやっぱり貧弱な情報源なわけで、テレビ/ラジオと列挙することで、放送媒体でなければいいという風に受け取られることを心配します。--Ks aka 98 2007年6月26日 (火) 17:58 (UTC)
- 私も、「放送媒体か否か」もしくは「ブログか否か」という事を、「風聞・ゴシップか否か」の基準にされてしまう事を心配します。著名人ならば、場合によっては活字媒体が扇情的な見出しを使うなどして振りまいた風聞(≒「どこかで読んだ」になりがち)を放送媒体や本人の公式ブログで否定する事があるからです。--古鳥羽護 2007年7月6日 (金) 15:22 (UTC)
- とにかく、今、生きている人間に迷惑をかけてはいけない、ということですから「TVで見た、ラジオで聞いた、どこかで読んだ」は全部ダメだということです。生きている個人に関する記述は明日すぐに検証できないといけないし、検証できない放送媒体は全部ダメ、ということです。そのためにウィキペディアの記載量が、たとえ10分の1になってもいたしかたない、ということです。あたりまえですが、百科事典より存命人物が優先です。--Album 2007年7月6日 (金) 16:07 (UTC)
- いかにすれば個人の名誉・プライバシーetcが守られるか、が重視すべき問題と思います。で、目的のために件の文言があったほうがいいか否かを考えると、私はあったらあったである程度有効ではないかと思います。新聞や雑誌による既成事実化は、新聞社なりが「載せてよし」と判断したことを意味する、と解せば、新聞等が言及した範囲内で可能性が開ける、てのもありかと…。Wales氏個人の意図は、それほど重視すべき問題でもないのでは、と思います。--S kitahashi(Plé)2007年6月25日 (月) 16:02 (UTC)
- 「テレビで見た」と「ラジオで聞いた」はウェールズ氏の発言じゃないし、第一その考え方だと
活字メディアが出典の情報も危ない。それだって誰でもすぐに読める物じゃないからね。ddd 2007年7月7日 (土) 09:05 (UTC)
関連する基本方針への追加提案
関連する基本方針の中にWikipedia:ウィキペディアは何でないかを加えるべきではないでしょうか。というのも、この中には個人プライバシーの扱いについて言及されている部分がいくつか見受けられるからです。例えば「ウィキペディアは演説場所ではありません」には「事実の暴露や報道を行う場ではありません。もっぱら知られていない事実を公表することが目的ではありません。事実ならば何を書いてもよいわけではありません。個人のプライバシー、また特に不謹慎とみなされる場合のある事象の記述に関しては、それが事実であっても保守的な態度で記述を避けるべきです」といった具体的な編集姿勢についても書かれた個所があります。
今まで幾人か著名人の記事編集にかかわってきましたが、Wikipedia:独自研究は載せない、Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:検証可能性だけを重要視した場合、「(自分にとっては)独自研究でなく検証可能で知ってる事実だから書いて良い」として本名や学歴などを簡単に記述され、後に特定版削除となるケースが非常に多いのです(例えば本名記載や学歴記載により3度に渡る特定版削除を余儀なくされた石原さとみや自分が特定版削除依頼を出させていただいた日出中学校・高等学校における在学生名の記載等)。本来存命人物に関する記述をする場合はプライバシーの尊重が何においても先に考慮されるべきことであるのに、人物のページにおいてしばしばそれがなさていない記事が散見されるのは、「独自研究は載せない」、「中立的な観点」、「検証可能性」の3つの方針のみが独り歩きしている結果ではないか、と。人物に関する記述には、3つの方針に加え、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかも組み入れて考える必要があるのではないでしょうか。多くの方にご意見を賜りたいと思います。--ライアン 2007年5月24日 (木) 22:39 (UTC)
ちなみにこの提案は、「当人はプライバシー尊重を望んでいると推定する」節を補完する公式方針として提示させていただいていることも追記させていただきます。--ライアン 2007年5月24日 (木) 23:00 (UTC)
- とりあえず、会話ページに来たので、コメントを。関連してはいるので、関連項目に加えるのは問題の無いことだと思います。「独自研究は載せない」、「中立的な観点」、「検証可能性」の3つの方針のみが独り歩きしているに関しては、この方針に対する議論だと思うので、井戸端(告知)に投稿して広く意見を募ったほうがよいかもしれません。現在のところ、その事に関しては言及を控えさせていただきます。--通 2007年5月26日 (土) 09:07 (UTC)
- アドバイスありがとうございます。井戸端(告知)に投稿させてもらいました。--ライアン 2007年5月26日 (土) 15:03 (UTC)