「木村七郎」の版間の差分
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[[1984年]]3月から[[1986年]]3月まで、全日本ボクシング協会(現・[[日本プロボクシング協会]])の会長も務め[[日本ボクシングコミッション]](略称JBC)に現役全選手及びプロテスト全受験者への頭部[[コンピュータ断層撮影|CT]]検査受診を義務付けた。 |
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他の所属先で芽が出ず移籍してきた選手・練習生を素質を開花させる日本プロボクシング界を代表する'''再生工場'''あるいは'''リサイクル王'''と呼ばれ、今までに6人の移籍選手が日本タイトルを獲得している<ref>[http://www.boxing.jp/column/ashizawa/ashizawa08.htm 木村七郎・新日本木村ジム会長 6人の移籍組をチャンピオンに育てた”リサイクルオー”]ボクシングJP 芦沢清一コラム</ref>。 |
他の所属先で芽が出ず移籍してきた選手・練習生を素質を開花させる日本プロボクシング界を代表する'''再生工場'''あるいは'''リサイクル王'''と呼ばれ、今までに6人の移籍選手が日本タイトルを獲得している<ref>[http://www.boxing.jp/column/ashizawa/ashizawa08.htm 木村七郎・新日本木村ジム会長 6人の移籍組をチャンピオンに育てた”リサイクルオー”]ボクシングJP 芦沢清一コラム</ref>。同じ1935年生([[学年]]では自身が早生まれで1級上)の[[日本プロ野球]]最高の再生工場[[野村克也]]と親交深い。 |
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[[佐藤仁徳]]・[[ハリケーン照]]・[[徳山昌守]]ら他ジム所属選手を含め数多くの世界タイトルマッチ・東洋太平洋タイトルマッチの開催に尽力、日本そしてアジアプロボクシング界を代表するプロモーターの一人で最大級の功労者として君臨する。 |
[[佐藤仁徳]]・[[ハリケーン照]]・[[徳山昌守]]ら他ジム所属選手を含め数多くの世界タイトルマッチ・東洋太平洋タイトルマッチの開催に尽力、日本そしてアジアプロボクシング界を代表するプロモーターの一人で最大級の功労者として君臨する。 |
2014年3月29日 (土) 00:19時点における版
基本情報 | |
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本名 | 木村 七郎 |
階級 | フライ級 |
身長 | 163cm |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1935年3月25日(89歳) |
出身地 | 宮城県 |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 23 |
勝ち | 18 |
KO勝ち | 5 |
敗け | 5 |
木村 七郎(きむら しちろう、1935年3月25日 - )は、日本のプロボクサー経験者(首尾一貫フライ級で戦った)。宮城県出身。新日本木村ボクシングジム創始者で現会長。日本プロボクシング協会顧問。
会長代行兼マネージャーの木村日出之は次男(第三子)である。
来歴
名取高校野球部正捕手、東北学院大学ボクシング部の練習参加しアマチュア選手を経験し宮城県高校フライ級王者、23戦21勝2敗。
無一文で上京し神田駅近くの金物屋で就職し新橋駅周辺に在った新和拳(後に関光徳が会長に就任しセキジム、現在の横浜光)に入門しアマチュアで東京都チャンピオン及び関東大会優勝、1956年12月1日、プロデビュー。同い年で同じ階級の同僚森田健とスパーリングで切磋琢磨した。
1958年4月4日、野口ジムの看板選手で世界タイトル挑戦目前だった三迫仁志と対戦し、10回判定勝ち。三迫はこの試合を最後に引退した。
フィリピンやタイへの遠征から帰国直後に1958年6月27日、同い年でメルボルンオリンピック4位の実績を引っさげプロ転向果たした米倉健志のデビュー8回戦で対戦し、腰痛や目の負傷をおしての強行出場がたたり4回負傷判定負け。
1958年9月30日、後の日本王者福本篤人と対戦し、10回判定勝ち。
1958年12月16日、日本フライ級王者矢尾板貞雄に挑戦し、10回判定負けで王座獲得ならず。
1959年4月28日、福本篤人と再戦し、9回TKO勝ち。この試合を最後に現役引退した。最高位OPBFフライ級2位。
1961年に木村ジムを設立し、現在まで会長を務めている。木村ジムでは小熊(大熊)正二を世界王座まで導き、多くの世界タイトル挑戦者・東洋太平洋・日本チャンピオンを育てた。
また自身のジム開設と同じ61年にはTBSと極東ボクシングクラブがタイアップした「ボクシング教室」の全国オーディションの札幌会場で審査員務め後の世界王者沼田義明を発掘。
口癖・モットーは「プロなんだから」、その一言が選手に対する待遇の良さ・健康管理徹底・愛情の裏返しである厳しい指導に表れている。更には「グローブを着けた練習をしなければ強くなれない」、スパーリングやマスボクシングを重視している。
1984年3月から1986年3月まで、全日本ボクシング協会(現・日本プロボクシング協会)の会長も務め日本ボクシングコミッション(略称JBC)に現役全選手及びプロテスト全受験者への頭部CT検査受診を義務付けた。
他の所属先で芽が出ず移籍してきた選手・練習生を素質を開花させる日本プロボクシング界を代表する再生工場あるいはリサイクル王と呼ばれ、今までに6人の移籍選手が日本タイトルを獲得している[1]。同じ1935年生(学年では自身が早生まれで1級上)の日本プロ野球最高の再生工場野村克也と親交深い。
佐藤仁徳・ハリケーン照・徳山昌守ら他ジム所属選手を含め数多くの世界タイトルマッチ・東洋太平洋タイトルマッチの開催に尽力、日本そしてアジアプロボクシング界を代表するプロモーターの一人で最大級の功労者として君臨する。
また「一度プロボクサー引退した者が他の格闘技(K-1、キックボクシング、総合格闘技など)参戦した場合も、現役選手・指導者含めプロボクシング界復帰をスムーズ認めるべきだ」という持論を掲げ、1999年吉野弘幸のボクサー復帰にも尽力。
また2008年JBCが女子プロボクシング開始に伴い、「一国一コミッション」の原則維持のため(発展的に解消した)日本女子ボクシング協会のリーダー的存在だった山木ジム(現アルファボクシングジム)の協会加盟金(本来なら1000万円)免除実現にも奔走した。
さらに亀田三兄弟が所属する亀田ジムの創設にも木村が関わっている。2010年に三兄弟の三男である亀田和毅が活動拠点としているメキシコでWBC世界バンタム級ユース王座を獲得しており、日本で同王座防衛戦を希望したが、やはり許可されなかった。
だが、2011年4月に事態は一転し、木村によるの強い働きかけでWBCユース王座への挑戦を日本ランカー以上を挑戦資格として容認することになった。7月8日に福岡市九電記念体育館で、解禁後初のユース王座戦が組まれた。まず、セミ前としてWBC女子世界アトム級ユース王座決定戦、黒木優子 vs ノンキャット・ロングレンギーラ・コンケーン戦が組まれ、4回TKO勝利した黒木が日本初の女子世界ユース王座を獲得、続いてメインで亀田和毅もユース王座の防衛に成功した。
東京都暴力団排除条例施行されて間もない2011年秋、週刊現代の誌上でライター森功の取材受け「日本ボクシング界と暴力団」に関して話し業界で批判を受けた。
脚注
- ^ 木村七郎・新日本木村ジム会長 6人の移籍組をチャンピオンに育てた”リサイクルオー”ボクシングJP 芦沢清一コラム