樺太
樺太 | |
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所在地 | ロシア(サハリン州)[1] |
所在海域 | オホーツク海、日本海 |
座標 |
北緯45度54分 - 北緯54度20分 東経141度38分 - 東経144度45分 |
面積 | 76,400 km² |
最高標高 | 1,609 m |
プロジェクト 地形 |
樺太(からふと)、樺太島(からふととう、ロシア語:Сахалин (サハリン)、中国語:庫頁島 (クイェとう)、拼音: )は、ユーラシア大陸の東方 、オホーツク海の南西部、北海道の北にある、南北に細長い島である。
また、樺太という名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名としても使用された。(樺太庁)
なお、樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、本項では、北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。
現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、第二次世界大戦における日本本土最後の地上戦が行われた地でもある。
名称
「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言うこのようなアイヌ語は存在しない[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる。
江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていた。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着した。
「サハリン」または「サガレン」の名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に黒竜江(満州語名:サハリヤン・ウラ)河口対岸に島があると聞き、満州語で、サハリヤン・ウラ・アンガ・ハタ(黒竜江の対岸の島)という名で呼んだことに由来する。ただし、清は樺太の存在を認知したが、清国領とはみなさなかった。
なお、日本が南樺太を領有していた時代には、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、区別の必要から北樺太を薩哈嗹(サガレン)と呼ぶ場合もあった。
地理
北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて位置している。島の約70%を山岳地帯が占めるが、北部は平地が広がる。樺太は、南北が約948km、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)の、南北に細長い島である。面積は76,400km²で、北海道(77,981.87km²)よりやや小さい。
南の北海道とは宗谷海峡で、西のユーラシア大陸とは間宮海峡で隔てられており、東はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下し、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は地続きだったと考えられている。
最北端はガオト岬(エリザベート岬)で、シュミット半島の先端に位置している。シュミット半島から西方の樺太北岸と、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸にかけて海岸線が南に湾曲しており、サハリン湾と呼ばれている。
南の宗谷海峡に対しては、西側には能登呂半島が、東側には中知床半島が突き出し、2つの半島の間は亜庭湾がある。能登呂半島の先端は西能登呂岬で、樺太の最南端に位置している。中知床半島の先端は、中知床岬である。
樺太の西方は、ユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。最狭部はネヴェリスコイ海峡と呼ばれ、その幅はわずか約7.3kmしかない。東のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出している。先端の北知床岬から西方は北へ海岸線が湾曲し、多来加湾と呼ばれている。
気候は、モンスーン気候。夏季は湿度が高く、霧が多く発生する。夏と冬の寒暖の差が大きい。また、石油や天然ガスなどの豊富な地下資源に恵まれている。
先住民には、アイヌ、ウィルタ、ニヴフといった北方少数民族がいる。
主な山岳
主な湖沼
主な河川
島嶼
南樺太
南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年に、外地から内地へと編入された。人口は1945年当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太では樺太庁の置かれた豊原市が中心都市。
北樺太(北サハリン)
北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州、ソビエト連邦時代は当初ハバロフスク地方、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石)である。
歴史
氷河期には大陸と陸続きだった。日本(間宮林蔵など)やロシア帝国の到達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族が先住していた。
先住民自治期
- 640年 - 「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢。
- 1264年 - 蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」(樺太アイヌ)を朝貢させる。
- 1284年 - 「骨嵬」が元に反乱を起こす。
- 1295年 - 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡り、本斗町阿幸に上陸し、布教活動を行ったとされる。
- 1297年 - 日本の津軽地方を本拠地とする蝦夷管領安東氏が「骨嵬」を率いてシベリアの黒竜江(アムール川)流域に侵攻したとされる。
- 1308年 - 「骨嵬」、元に降伏。毎年の貢物を約束。
- 1368年 - 元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
- 1411年 - 明は、黒竜江(アムール川)下流域まで進出。衛(領事館)を樺太など3箇所に設置し、アイヌ民族と交易する。
- 1485年 - 樺太アイヌの首長が武田信広(松前家の祖)に銅雀台を献ずる。
- 1562年 - ベリユによって製作された世界地図の津軽地方からカムチャツカにかけての地域にBANDOY(安東国)と記される。
- 1593年 - 豊臣秀吉が松前慶広に蝦夷地全域の支配権を付与する。
- 1635年 - 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る。
- 1644年 - 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。
- 1679年 - 松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊町楠渓)に設けられ、日本の開拓が始まる。
- 1709年 - 清の康熙帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量中に、黒竜江河口対岸の庫頁島(樺太)を確認した。
- 1742年頃 - 樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。
- 1790年 - 樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。
日露の領土競合時代
- 1799年 - 樺太南部など蝦夷地が幕府の直轄地となる。
- 1806年 - ロシア海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。また、同年秋には大泊を焼き討ちにし、弁天社の鳥居に真鍮でできた板を取り付け「樺太の占領」「先住民はロシアに服従した」と意味する内容が記された。
- 1807年 - 樺太南部が再び幕府の直轄地となる。ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島などとともに留多加を襲撃する。
- 1808年 - 江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。
- 1809年 - 間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献した。また、山丹貿易を幕府公認とした。
- 1821年 - 樺太が松前藩領になる。
- 1848年 - ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。
- 1853年
- 1854年 - 安政元年日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定した。
- 1858年 - 幕府は大野藩主土井利忠に北蝦夷地警備と開拓を命じた。
- 1859年 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府はこれを拒否する。
- 1865年 - 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
- 1867年 - 樺太島仮規則調印。
- 1869年頃 - 北蝦夷地を樺太と改称
- 1870年2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
- 1871年8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
全島のロシア領期
- 1875年5月7日 - 樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
- 1890年 - 作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。現地の日本人島民とも交流。日本への渡航も企てるが失敗。後に報告記「サハリン島」を執筆する。
- 1905年7月 - 日露戦争末期、日本軍が樺太島に侵攻、全域を占領(樺太作戦)。
南部の日本領期
- 1905年9月5日 - 日露戦争後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲される。行政機関として樺太民政署が設置される。
- 1907年4月1日 - 樺太民政署の発展的解消により樺太庁発足。
- 1908年3月31日 - 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。
- 1915年6月26日 - 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
- 1918年 - シベリア出兵の際に日本は北部も占領するが、1925年に撤兵する。
- 1923年8月2日 - 7日 - 詩人・作家の宮沢賢治が、樺太を訪れる。大泊に上陸し、栄浜に向かう。帰路、豊原に立ち寄る。
- 1929年
- 1937年7月1日 - 樺太市制により、豊原市が市制施行する。
- 1942年11月1日 - 拓務省の廃止と大東亜省の設置に伴い樺太庁が内務省へ移管される。
内地時代
戦後の樺太
- 1945年9月17日 - 南サハリン・クリル列島住民管理局の設置により、樺太庁が事実上消滅する。
- 1946年1月 - GHQより日本政府に対しSCAPIN-677が通達され、日本の政治的もしくは行政的権限の行使の中止が指令される。
- 1949年6月1日 - 国家行政組織法が施行される。これをもって国内法的に樺太庁が消滅する。
旧ソ連・ロシア占領下については、南サハリン州及びサハリン州の項目を参照されたい。
帰属の歴史
幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷した。
- 1855年 - 日露和親条約が締結され、樺太は「界を分たす 是まて仕来の通たるへし」と、日露混住の地と決められた[2]。
- 1867年 - 日露間樺太島仮規則が締結され、「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされた[3]。
- 1875年 - 樺太・千島交換条約により、樺太全島はロシアの領土となった。
- 1904年2月8日 - 日本は清国旅順港に展開中のロシア艦隊を奇襲攻撃、日露戦争が勃発した。
- 1905年6月 - アメリカ合衆国大統領・セオドア・ルーズベルトの講和勧告を日露両国が受諾表明した。後に日本は樺太作戦を決定し、
- 1907年 - 日本は樺太に樺太庁を設置。
- 1942年 - 「内地行政」への編入を行った。
- 1945年
- 1952年 - カイロ宣言やポツダム宣言に基づき作成されたサンフランシスコ講和条約第二条に「南樺太と付属島嶼の放棄」と記載されている。これに基づき、日本は南樺太の領有を放棄したが、その後の南樺太の領土帰属に対して、日本とロシアの主張に差異がある。
日本政府は、サンフランシスコ講和条約にソ連は調印せず、その後も南樺太の領有に関する条約や協定等が締結されていないため、「国際法上南樺太の帰属は未確定である」との立場を取っている。一方ロシア側は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているとの立場を取っている。
一方、日本国には南樺太の領有権問題を主張する人も存在するが、上記の通り日本が領有権を放棄したことについては日本とロシアの主張に差異が存在しないため、一般的に議論の対象になることは少ない。
なお冷戦下の1952年3月20日にアメリカ合衆国上院は、南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のためにサンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行った。
関連項目
地理
民族
その他
脚注
参考文献
- 角田房子『悲しみの島サハリン—戦後責任の背景』新潮社。ISBN 4101308063。
- ウィーゾコフ『サハリンの歴史-サハリンとクリル諸島の先史から現代まで』北海道撮影社。ISBN 4938446596。