本斗町
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ほんとちょう 本斗町 | |
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廃止日 | 1949年6月1日 |
廃止理由 |
国家行政組織法施行 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 樺太地方 |
都道府県 | 樺太庁 真岡支庁 |
郡 | 本斗郡 |
面積 | 405.77[1] km2. |
総人口 |
11,201人 (1941年12月1日) |
隣接自治体 |
本斗郡内幌町 真岡郡広地村 留多加郡留多加町、三郷村、能登呂村 |
本斗町役場 | |
所在地 |
樺太庁本斗郡本斗町 |
座標 | 北緯46度41分11秒 東経141度51分33秒 / 北緯46.68639度 東経141.85917度座標: 北緯46度41分11秒 東経141度51分33秒 / 北緯46.68639度 東経141.85917度 |
特記事項 | 1943年4月1日以降は北海地方に所属。 |
ウィキプロジェクト |
本斗町(ほんとちょう)は、日本の領有下において樺太に存在した町。
本斗という地名は、アイヌ語の「ポン・トー・ケシ」(小さな湖の端)、「ポン・ツ・ケシ」(小さな岬の端)による[2]。
現在はロシア連邦がサハリン州ネベリスク (Невельск) として実効支配している。
概要
[編集]- 樺太では珍しい、製紙工場を背景とせず、林業や漁業を中心として発達した町であった。
- 日本人との関わりも大変古く、1295年に日持が日蓮宗の布教活動の為に町内にあたる阿幸(ヤスノモルスキー)に上陸したと言われている。
歴史
[編集]- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により、本斗村、阿幸村が行政区画として発足。本斗郡に所属し、真岡支庁本斗出張所が管轄。
- 1922年(大正11年)10月 - 管轄支庁が本斗支庁に変更。
- 1923年(大正12年)4月1日 - 阿幸村が本斗村に合併。
- 1928年(昭和3年)12月31日 - 本斗村が本斗町となる。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により一級町村となる。
- 1942年(昭和17年)11月 - 管轄支庁が真岡支庁に変更。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日本斗町廃止。
町内の地名
[編集]- 旧本斗村地域
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- 旧阿幸村地域
- 阿幸
- 麻内(あさない)
- 知根平(ちねひら)
- 阿幸沢(おこうざわ)
- 麻内沢(あさないざわ)
([3])
交通
[編集]- 鉄道・バス
地域
[編集]教育
[編集]以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[4]。
国民学校
[編集]- 樺太公立知根平国民学校
- 樺太公立麻内国民学校
- 麻内沢分教場
- 樺太公立阿幸国民学校
- 樺太公立遠節国民学校
- 樺太公立遠節沢国民学校
- 樺太公立本斗国民学校
- 樺太公立吐鯤保沢国民学校
中等学校
[編集]- 樺太庁本斗水産学校
観光
[編集]- 吐鯤保沢温泉[5]
脚注
[編集]- ^ 市町村別日本国勢総攬 下卷(帝国公民教育教会 1938年)
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実 p.278
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1685 - 86、p. 1693
- ^ 明治・大正・昭和の鉄道地図を読む (中村建治・著、イカロス出版、2013年2月15日発行)41頁(引用元は『鐡道交通案内圖』(松榮堂、1944年4月25日発行))